磨硝子日記

すりがらすのブログ

2023年7月9日 山下達郎のサンデー・ソングブックを聴いて

サンソン聴きました。

達郎さんが大切にしていることがご縁とご恩であるならば、同じ事務所で志をともにした人から名指しで指をさされたのはなぜでしょうか。性加害はゆるされないと考えながら、あの人を尊敬することは、達郎さんの音楽やシティポップを愛しながら、つとめて政治的存在であろうとすることの間柄に似ていると感じます。つまり、どちらもそうであるといっているうちは、どっちつかずになることだとおもうのです。

わたしがいま必死で生きている日々のできごとと、すばらしい音楽家のうつくしい作品のなかにある物語は、これまでも少し離れたところにありました。きびしい現実から離れ、ひととき音楽に癒されることが、しあわせのひとつでもありました。そして、現実世界を捨て去ることもできなければ、粛々と生活を続けることもできないわけで、あいまいな境界をゆるやかにいったりきたりしながら、なるだけ、現実世界で政治的な存在として行動することを心がけてきたつもりです。しかし、これからはよりいっそう、忸怩たるおもいで、ふたつの世界にいっそう色濃く線をひかなければならないと感じます。

なぜならば、このことは、わたしが達郎さんの人柄や音楽をこれからもすきかという、個人的で勝手にしたらいい、とるにたらないような話にとどまらず、明確に、けっして癒されることのないかなしみをあじわった方々のほうへ、連帯することを表明しなければならないできごとだからです。
罪をしるよしもなく作品に関わっていたとはいえ、それが明るみにでた今、達郎さんがどのような発言をするのか、とても気になっていましたが、今もなお、変わらない立場をとったことを、わたしは、とてもかなしく、残念におもいます。

Summer Eyeを聴いているかとたずねてくれたあなたへ

時間どおりにたどり着けないのではないかと、いつものとおり焦っていた。何年たっても、ライブに余裕をもって到着できたためしがない。九十九折りにエスカレーターをのぼると、開けたイベントスペースがみえた。こういう場所にきたのは、ほんとうに久しぶりだ。大きな窓から、渋谷の街と、沈んでいく夕日がみえる。渋谷スクランブルスクエアの12階、BIG ROMANTIC SHOWCASEなるイベントへきた。

定刻を過ぎても、DJのプレイはつづく。こういうとき、Shazamとかするんだっけ?ひとりできて、話し相手もおらず、手持ちぶさたなまま、ぼんやりと物販をながめていたら、ステージ前がほとんどぎっしり埋まって、わたしの身長ではどこからもステージがみえなくなってしまった。
あきらめて後方に立ちどまり、他にいい立ち位置はないかとまわりに視線をやっていたら、ブースのむこうに、ベルリンのレコード店のトートバッグをさげた、みしった人がいる。菅原さんだった。

どうしてかは自分でもわからないけれど、この日わたしは、絶対に菅原さんに会えるとおもっていた。翌週、同じイベントに出演を控えているので、おそらく会場に顔をだすだろう、という、現場に慣れすぎた邪推もできるけれど、とにかく、きょうは会える、という確信があった。そうしたら、ほんとうにいた。ありとあらゆる運を使い果たして、すきな人と席替えで隣の席になったときと同じ胸の高鳴りを、静かにかんじた。

菅原さんには、3年半のあいだ、会っていなかった。最後に会ったのは、わたしが企画したライブに菅原BANDがきてくれた日で、それは、シャムキャッツSTUDIO COASTのライブから1週間後だった。SNSのおかげで菅原さんの最新の動向は目にしていたので、バンドが解散したあと、菅原さんがディスクガイドをだしたり、SAMOEDOというあたらしいバンドをはじめたらしいということはしっていた。けれども、インタビューを読んでも、SNSの投稿をみていても、なんだかいつもと違うという直感をおぼえて、それは日に日に色濃いものになっていった。菅原さんといえば、誰よりも正直に(時折シャムキャッツというバンドに対して抱かれるファンの期待とも関係なく)胸の内を明かしてくれるような印象で、話すと少しだけ、わたしまで素直になったような気もちにさせてくれる人だ。そういう彼から、これまでになかったような、ひとりだけ別の波長が感じられたのはどういう意味なのかを、ずっと考えていた。それがたまたまだと信じたかった。ほんとうのことを全部しりたいわけじゃない。むしろ、だいすきなバンドの解散の理由は、いちばんしりたくない。事実をしっても、無力だから。けれども、シャムキャッツはわたしにとって、解散と聞いて平気でいられるわけがないほどに特別で、近すぎるバンドだった。だからこそ、菅原さんが何を考えているのかが気がかりだった。 TURNのインタビューで、「解散しても僕にみんな何も言わないんですよ。菅原、何やってるんだ、とかね。」と話していたけれど、直接伝える機会と勇気がないだけで、いいたいことはたくさんあった。

ライブをみたあと、視界の端に菅原さんがいるのを確かめながら、なに食わぬふりをしてカセットテープをひとつ買った。帰りがけ、声をかけようかためらった。会えるとまでおもっていたくせに。けれどもきょうは、話しかけなければいけない。わたしは謎の使命感にかきたてられ、それでも腰が引けた格好のまま、後ろから近づいて、右腕を2回、トントンと触った。菅原さんはふりむくと、一瞬、誰だかおもいだすような表情をしたあと、目をみひらいて、すりがらす!と大きな声で呼んでくれた。久しぶりに聞いた菅原さんの声は、ものすごい引力を帯びていて、わたしは、からだごと一気に吸いこまれていくような心地がした。その勢いで、数年のあいだあれこれと考えてみぞおちのあたりに重くたまっていたわがままな気もちが、くやしいほど、いとも簡単に振りはらわれていくのがわかった。菅原さんと話しているときには、なぜだかずっと無防備な心でいられることをおもいだした。一呼吸のあいだに、しばらく足を踏みいれることができなかった安らげる居場所へと、軟着陸してしまった。

驚いて固まった顔のまま、とりあえず頭をペコペコ下げていると、菅原さんが元気?と訊いてくれた。よせばいいのに、あんまり元気じゃないですと答えると、菅原さんが、そんなこともあるよねと返してくれる。そのあと続けて、仕事はどう?と訊いてくれたので、この3年のあいだに転職しましたと答えたら、じゃあ3社目?といってくれた。菅原さんは、会えなくなる前までのわたしの転職回数と仕事内容まで覚えてくれていた。もうそれで十分だった。

それからわたしは、調子にのって、すきなバンドは3つとも解散してしまったのでライブにいっていないと話した。口から言葉がでおわったあと、ずいぶん大胆なことをいったものだとおもったけれど、菅原さんは、そうだよね!と大笑いしたあと、Summer Eyeは聴いてる?とたずねてくれた。おもいがけない質問に、面食らってしまった。きっと、菅原さんは、わたしが夏目くんのことをだいすきだとしっていて訊いてくれたのだとおもう。わたしは、聴いていないし、ライブにもいっていない、と答えた。続けて、SAMOEDOは聴いてる?と訊かれたので、同じように、聴いていないと答えた。そう答えるほかなかった。聴いてますと答えたって、必ずばれるとおもったから。わたしの答えを聞いて、菅原さんは腹を抱えて笑っていた。そんなふうにいってくれてうれしい、Summer EyeやSAMOEDOを普通の気もちで聴けるわけがないよね、といってくれたのだった。

シャムキャッツのことも、Summer Eyeのことも、なぜだか菅原さんに話すのだけははばかられて、その話題だけにはなるべく触れないようにしようとさえおもっていた。おたがいに、いいたくないし、聞きたくないような話になるのがこわかったから。でも、いざ話してみると、拍子抜けするほど自然な会話になった。本人を目の前にして、気が引けたわけではない。菅原さんがあまりにもさっぱりとした風通しのよい様子だったので、いろいろなことに区切りをつけたのだと、わたしのほうもあきらめがついたのだ。話し終わるころには、ずっと引きつれてきた心残りもかたづいていくような気がした。

別れぎわ、SAMOEDOの次のライブはいつかと訊くと、5月7日だと教えてくれた。3日後だった。菅原さんは、こないだろうけど、とでもいいたげに、にやりと笑いながら、はっきりと、7日ね!といって、むこうへ歩いていった。そんないたずらなことをされたのははじめてだったので、圧倒されて固まってしまった。でも同時に、胸がすくようなおもいもした。ずっと立ち止まったままで、手をさしのべられれば必ずつかむようなわたしに、そこにいてもいいし、すすんでもいいし、別の場所にいってもいいけれど、どうしたいのかと、あえて手をふって投げかけてくれたような気がしたから。会場をあとにしながら、わたしは迷わずに、心を決めた。

いそがしい頭のこと

髪を切った。顔まわりに大きくレイヤーを入れてもらった。NewJeansのハニちゃんやダニエルちゃんみたいに。ずっとやってみたかったから。はじめは目的があったようで、最近ではなんとなく伸ばして背中の真ん中のあたりまで伸びた髪を、鎖骨の下あたりまでばつっと切った。わたしにとって髪を切ることはとても重要なことだ。この髪型で、どんな服を着て、どんなメイクをして、どこで何をするのかを考えては、Instagramでイメージに近い画像をスクショして、念入りに美容師さんに説明して再現してもらう。この美容師さんにはもう8年ほど髪を切ってもらっているが、毎回イメージどおりかそれ以上に仕上げてくれるので、大きな鏡の前で感嘆する。というか、本人でさえも、こんな感じにしたいけれどそれをわたしの頭に搭載したらどうなるかわからないですという状態でオーダーしているのに、できあがってみると、おお、わたしはこのスタイルがしたかった、インスタでみたモデルさんとわたしはこんなにも髪の量や頭のかたちや顔のつくりがちがうのに、モデルさんの髪型をそのままわたしの頭にポンとのせたようではなくて、わたしの頭をこのモデルさんに近づけてくれたのだなとおもえるできばえで、ありがたいことこのうえない。


わたしの好みと、好みとは関係なくここにある体の両方をわかっていてくれる人はすごい。美容師さんとか、整体のあおやぎさんとか、ピラティスの先生とか。
髪のことでいうと、わたしは髪の量が多く、毛が太くて硬く、直毛寄りなので、髪の柔らかさを活かしたふんわりとしたスタイルをするには、ものすごい努力がいる。まず相当に量を減らさないといけないから、セットしていないとスカスカになるし、かといって巻いたとしても髪のハリが強すぎて、エアリーな感じよりもブリンとした弾力感がでてしまう。美容師さんにいちど、テレビ朝日の弘中アナウンサーのような外ハネのボブにしたいと伝えたところ、わたしの髪のポテンシャルからは最も遠いところだと教えてくれた。それでもわたしのなりたい髪型を目指して、あの手この手をつかって、なんだかみたことのないかろやかな髪型に仕上げてくれたことがある。もう髪のことはこの人におまかせしようとおもったのだった。

あおやぎさんもそうで、彼はわたしのすきなものをきっとよくしっているし、できないことや苦手なこともしっている。すきな食べ物や食生活について。すぐにいろいろなことを考えすぎて頭がいそがしくなってしまうことについて。あと夜ふかしをしていることについても。でもそれをどうこういうこともなく、最初に会ったときにはだいぶ体が弱っていたので冷たいものと甘いものを控えるようにいってくれたくらいで、あとはせっせと施術をしてくれる(なぞの呼吸で)。わたしがこれまでつれてきたのになんにもよくわかっていないわたしの体について、わたしよりもよくしっているのがなんともおもしろい。きみはこれをきっとすきだとおもうよといわれて送られてきたApple Musicのリンクを開いて、にっこりするときの気もちに似ている(ところでこれも実際すごく多いんだけれど、みんなわたしの好みがよくわかっていてすごいね。そんなにわかりやすいですか?そうですよね)。

それから最近ピラティスをはじめて、わたしが通っているスタジオで何人かの先生に会ってみたが、なんとなくバイブスのあいそうな先生に出会うことができた。先生はほめ上手で、運動でほめられたことなど記憶にないのに、やる動きごとにうまいです上手ですといってくれる。そもそもわたしがほめられることだけを燃料にして生きていることをもうみぬいたのかと震えたのだが、それだけでなくわたしの体をみては気づきをくれるので、それを聞いては頭がいちいち閃光を放って驚き、毎度(つながるはずのない)体と頭がたがいに気づいて、すこしだけ手をのばしあって近づいていくような気もちになる。ヨガを習っていたとき、わたしは四つん這いの姿勢がなんとも息苦しくてつらい姿勢だと感じていたのだが、先生から腕や肩まわり、手首の使い方を教わると、苦しさが軽減されたのもその体験のひとつだった。


このあいだ読んだ本に、体は正直だけれど、頭はそれを頭で考えて無視することができるから、無理して働いて体をこわすみたいなことが起こるといったようなことが書いてあった。おそらく素直に読んでいけば、だから体を大切にしましょうともとれるけれど、反対に、頭で考えてみて嫌だとおもうことを、体にさせられるのかとおもうと、わたしにはとってもむずかしくて、だからこそいつでも頭のなかは竜巻のように、あるいはぐらぐらと煮たつ鍋のなかのようにおちつかない。ひとえにわたしは体を動かすためにものすごく頭を使っているというだけなのだけれど、頭でウーンと考えないと体を動かせないつくりになっているので仕方がない。ぼおっとしていられない。ずっと前に、あおやぎさんから、たまには音楽でも聴いて息抜きしなといわれたことをおりにふれておもいだすけれど、いわれたとおりにできたためしはない。それもきっとわかっているはずだからいいのだけれど。

1月のこと

家族と紅白をみているとき、母が電話に出るやいなや大きな声をだしたので、何が起こったのかすぐに察した。伯父が亡くなった。
ここ10年以上は会っていないと記憶しているが、幼いころにはいとこと一緒によく遊んだり、旅行へいったりしていて、伯父はいつも運転席にいた。いとこは男の子ふたり兄弟なので、伯父はわたしのことを、女の子はかわいいなあといって抱っこをしたりしてくれていたのらしい。正月休み、昼間に母が洗濯物を取りこみながら、凧持って歩いてる親子がいる、と話しかけてきたとき、わたしはふいに、伯父と近所の公園へ凧揚げにいったことをおもいだしたのだった。よく晴れていたけれど風のない日で、伯父には、今日は飛ばないかもしれないよ、といわれたけれど、わたしは意地になって凧が揚がるまで頑張った。
伯父は末期がんだった。春に再発し、入退院をくりかえしていたそうだ。年の瀬になって入院したというしらせのあと、あと1ヶ月、あと週単位と聞かされていたのに、わたしたちが万が一に備えて礼服を揃えにいった翌日、伯父は急にいってしまった。57歳だった。
わたしのほうは、健康診断で乳房に腫瘤があるというので、その数日前に乳腺科へマンモグラフィーと超音波エコーの検査を受けにいったばかりだった。幸いその場で良性だろうといわれたのだけれど、伯父が末期がんであることはしっていたので、わたしもそうであったらという考えは何度も頭のなかを往来したし、ほっとはしきれない気もちだった。病気にかかることや、急に体がわるくなって生活が一変してしまうこと、もしかすると失うものもあること、そうした不安に敏感になり、信頼できる人に連絡をして慰めてもらったほどだった。そんな折に訃報がきた。
通夜と告別式のことはすでに断片的にしかおぼえていないけれど、通夜の日はとにかく寒く、それでも換気のために会場の出入り口が1ヶ所開けっぱなしになっていて、焼香を待つあいだ、ストッキングにパンプスだったので足首がずっと冷えていた。告別式の終わり、棺に花をいれていると、伯母が堰をきったようによよと泣いたのには、胸が押しつぶされそうだった。それから、荼毘に付された伯父の骨を骨壷におさめる場面は忘れられない。伯父は体が大きくて、さらに若かったからか、骨をそのままの大きさではすべて詰めきれず、斎場の職員の方が骨を砕きながら少しずつおさめたのだが、その時に天井の高い部屋ににぶく響いた、他のどんな場面でも聞いたことがないガシャリゴシャリという音を、今でもふとした時に耳のなかで再生する。体のふしぶしが痛みをかんじるような気さえする。それと、同い年のいとこの後ろ姿。久しぶりの再会はこんなふうになるともおもわず、何も声をかけられなかった。ただ彼と家族の健康をねがうことしかできなかった。
自分が言葉を交わしつながってきた人が亡くなるのは、想像以上に受けとめがたい。最期に何を考えていたのだろうか、どんなおもいだったのかなと考えると、いくつか、こんなことを考えたかしらとおもうけれど、ほんとうのところを教えてくれる人はもういないという虚しさをみつめていると、時の流れから取り残されてしまいそうになる。

年明け早々には、仕事で嫌なおもいをした。電話口で罵倒され、腹がたつ前に力が抜けてしまった。しばらくのあいだ、予定をつめこんでいて残業が多くなり、ちょっとしたことで心がささくれだった。あるとき疲れて駅まで歩くのをあきらめ、会社の目の前の停留所からバスに乗ると、夜風を受けずに駅に着くことができた。冷たい風にさらされないだけで、その日は心を守ることができた気がした。そんなことで、とおもわれるようなことが、わたしにとってはおおごとだ。朝がきたら仕事をしなければいけないし、バスは時間になったらいってしまう生活のなかで、不条理に傷つけられることもあれば、他の誰かからは必要とされて、それでもどうしようもなくなったら甘えたりして、つらさの端にいき切らないようにふんばっている。きょうも、あしたも、その先も、できるだけ長くあるといいなとおもいながら。

どうしようもないこと

駅を出ると、大きくて丸い月が浮かんでいた。都合よく雲がよけたところに場所を取り、びかびかと光るので、図々しさにおっかなくなり、それを背にして家へむかう。なるべく振り返らず、直視しないようにした。月を見るのはなぜだか怖い。女性は月の満ち欠けによって身体に波が寄せては返すのだと聞いたが、それは実感としてほんとうではないとしても、あの悪気のない明るさに吸い込まれそうになる。中秋の名月とやらは美しいわけではない、おそろしいのだという気もちを、わたしはここに記しておこうとおもう。

予感を見過ごさないようにしたい。手相には詳しくないが、手のひらの真ん中のあたりに十字の線が出る「神秘十字」というのは、絶体絶命の危機から守ってくれるものなのだと、手相芸人の島田秀平が言っていた。浅田真央小栗旬にもあるというし、先日タワレコで見た達郎さんの手形にもそれらしいものがあったし、そして父の両手にもくっきりとあった。わたしの両手にもある。ああ運の尽きだとおもった時にも、なぜだか最悪なほうへは転ばないのは、この神秘十字のおかげだと信じていて、それは決断する勇気のもとにもなっている。たとえば、胸の中にぽっと浮かんできては、どうでもいいと片づけそうになることを、たまに大真面目にやってみたりする。この数年はしんどいおもいもたくさんしたが、その時時の選択が廻り回って今のわたしを助けるという場面に、この1年くらいでやたらと出くわす。どうしようもないとおもった時に、こうするしかないのだと、確かなことはなくても信じて進んだわたしに手を振るようなことが多い。ときどき、ふと手のひらを見ては、消えていないか確かめる。ことに顔のしわはせっせと色々なものを塗りこんでどうにかやわらげようとするのに、このしわだけは取っておきたいとおもうのはふしぎで仕方がない。とてもよいことばかりが起こらなくてもいい。ただ、どうしようもないことから、からがら逃げて生きていきたい。

会社のオフィスが移転した。以前に通っていた池尻大橋では、地上に出るとでかい鳩が闊歩していて、首都高の高架下にあるごみ置き場の前をうろうろとしているのを見やりながら歩く朝にだけは、いささか胸が塞ぐものがあった。駅から会社までの怠惰な坂をずっずと上り、それからまた急勾配をすたすたと下りるころ、ひととおりの現実がリロードされていく感覚は、心地の良いものではない。神泉のほうへ行くと夜は真っ暗で細い道も多く、疲れてぼおっとしながらひとりで歩くにはやや危ないような気もして、なるだけ出社を減らして在宅で仕事をしていた。
それでもわたしにとってはまだ地の利があった。これまで4つの会社に勤めてきたが、街を歩いていて、ここはわたしがいるべきでないと感じるところでは長く働けない。新卒で入社し、1年9ヶ月でやめたのは銀座にある会社で、転職して3ヶ月でやめたのは新橋の会社だ。華やかなイメージもある街だし、不便なわけでもないのに、わたしにとっては通うだけでなぜか息苦しく、いつも目に映るものが灰色で(それは、ビルばかりが多いからではない)、街には申し訳ないが一方的に相性が良くないと感じた。かたや青山にある会社にいた頃には、評価こそされなかったが、同僚に恵まれ、すきな服を着て、すきなメイクをし、わりといつも健康だった。夜も明るく、246沿いでも緑が多く、空気が良いような気がした。
今回はまた青山エリアに越してきた。一般社員の意見が反映されるはずもないオフィスの所在地について、家から近いのかとか、駅からは近いのかとか、ランチで行く店があるかどうかとか、そういうことの他に心配が多かったけれど、想像以上に良い場所だと感じている。ちなみに駅からは15分以上歩くので、普通に考えれば不便の域ではあるのだろうけれど、ブランドショップや飲食店が顔を向ける通りを歩くのは楽しい。雨が降っても寂しくない。長い通勤路が終わりに差しかかると、日傘を閉じてひだをたたみながら、首都高を仰ぎ見る。左を向くと、青山にある会社にいた時と同じように、六本木ヒルズの全身が見える。おもわずにやっとした。

2年以上、気づかれていないとおもっていたことが、ばれていた。悪いことをしたわけではなく、ちょっとした目配せをしたので、もしかしたら気づかれるのかもしれないとおもいながら、気づいた時にもきっと、むこうからは、あれってと言ってくることは絶対にないとおもっていた。無粋なことはしない人だから。でも、ばれていたのがわかると、こうなるような気もしていたような気がするからおかしい。そうして色々なことは整えられて、きょうも、きのうのことも、ずっと前のことも、おもい出せないことも、どうしようもないけれど、どうにかなるのだ。

推しってなんだろうね

夏目くんがすきだ。かっこつけて、人を心配させて、放っておけなくさせて、目が合うと吸いこまれてしまいそうな引力をもっている夏目くんは、たったひとりだけの特別な人だ。あこがれすぎたころ、美容室に夏目くんの写真を持っていって、同じ髪型にしていた。少しでも夏目くんに近づきたかったが、サインをしてもらうのも写真を撮ってもらうのも恥ずかしくて、たいして声をかけなかったり、すっと会場をでてしまったり、裏腹なことばかりをした。夏目くんと話せた時、いい髪型だね!といわれて満足して、やめた。お気にいりの大きなフリルのついた服を、カジュアルなビョーク命名されて、この服はずっと大事に着ようと誓った。そのときにはちょうどよい語彙をもっていなかったのだけれど、これは、今風にいうと、きっと「推し」だ。

わたしは推しのことをよくしりたいとおもうほうだ。喫茶店で頼むもの、電車に乗っているときに聴くもの、カラオケで歌う曲、朝ごはんは、昼ごはんは、おやつに何を食べて、いつも履いている靴は、すきな場所は、悲しいときは、大切な人は。でも夏目くんにはうまく話しかけられないから、そのうちのひとつもよくわからない。
たとえばライブのあと、最近TWICEすきなんですけど夏目さんもすきですか?とか話しかければ、TWICEの話では盛りあがれるかもしれないし、今このアルバムにハマっているよみたいな話がでれば、速攻サブスクでダウンロードして次の朝から延々と耳に染みこむくらい聴いて、ほう夏目くんはこれがすきなんだなあみたいな恍惚(?)にひたることもできるだろう。けれどもわたしはそういった気の利いた話を、本人を目の前にして繰りだせない。どうしても話したいことがあれば、iPhoneのメモ帳に書いておいて、それをみながら上から順にいっていくのが無難だが、それはさすがにかなり気もちが悪い。そして開き直ると、別に何を話すかは重要ではない気もする。目の前に推しがいる、その時間をできるかぎり長くできる方法をしりたい。けれども夏目くんのライブには、次に夏目くんに話しかけたいお客さんもたくさんおり、わたしが私利私欲のために夏目くんの時間をほしいだけもらうことはできないので、もう時間をつくるためだけにつまらない話を夏目くんにしては、ああ今日もうまく話せなかったと胸のなかの壁に水っぽい泥を投げつけるような気もちになる前に、はやく帰ろう、と、いつもそうしてさっさと会場を後にしていた。
だから夏目くんのことはよくわからない。けれども、ただそこにいる夏目くんがすてきですきという、あんなに近くにいたのに、結局はものすごく遠いところから眺める観客のひとりをずっとやっている。ただつかみどころがないおもいで、一方的につよく惹かれるなあと感じているのだ。

夏目くんがLINEをはじめたのには、なんでLINEなんだろうとおもいながらも、ほとんど反射神経で友だち登録をした。通知がくると毎度どきっとする。週に1回とか2回とか結構な頻度で送られてくる。友達や、家族や、すきな人のトークが並ぶなかに、夏目くんの名前がある。ふしぎなものだが、あまりにぐんぐんと送られてくるので、感覚的には一方的にたくさんメッセージを送ってくる友達のひとりという感じになってきた。とにかくメッセージが長くて、そしてそこにはしらないことがたくさん書いてある。ああ、夏目くんは今こんなことを考えていたのか。Summer Eyeという名義(これが「夏目」だということにほんとうについこのあいだ気がついた)になってからの作品を聴こうとすると視界に靄がかかってしまって、まだ『求婚』の告知映像で数十秒聴いただけなのだけれど、こうして夏目くんのLINEを受けとっているうちに、ほんのりまたライブにいきたいような気もしてきた。ライブでは何を歌っているんだろう。メッセージの中身は、LINEの友だちだけに送っているからか、心なしか繊細でやさしい言葉づかいも多く、その日起こったことが子細に書かれている回もあるので、おもわず、大変だったねえとか、それはよかったとか、声をかけたくなる。返信しないけど、おもっていることはある。もっと色々なことを話してほしい。わたしが聞きだせることよりも、あなたが話したいとおもうことのほうをしりたいから。

山下達郎のツアーに行ってきた話 2022

6月17日、金曜日。それはまだ風が凪いでいたころ。わたしは3年ぶりに東京駅でのぞみの乗り場へ向かっていた。モバイルSuicaでは改札をそのまま突破できず窓口へいかなければならないことを初めてしったけれど、駅員のお兄さんはとてもやさしく、こんなやりとりを何度も繰り返し別の客にしているであろうにもかかわらずにこやかで、旅の足取りが軽くなる心地だった。いつもならチキン南蛮弁当みたいなものを買いたくなるところ、売り場で目に入ったがすぐに視線をそらして、脂質を気にするわたしは助六弁当とお茶を買い、1泊用のSaToAトートバッグにぱんぱんに詰まった荷物の上にほとんどそっとのせるだけで、バッグを肩にかけなおしてエスカレーターを上った。梅雨明け前だったからか、ホームを通りぬける風はたっぷりの湿気をたたえていた。マスクをし、ずんずんと自由席乗り場へ歩くには、日除けに着てきた長袖だと暑い。それでも新しくおろした空色のギンガムチェックのワンピースがゆれるたびに、むずかしいことをひとつひとつここへ置いていけるのだとおもった。11時30分ごろだった。

熱海まで弁当を開かないでおいた。平日の午前中だったが、金曜日だからなのか混んでいて、新横浜あたりではほとんど空席がなかった。隣では学生が黙々と数学Ⅲの問題集を解いている。わたしはダウンロードしておいた韓国ドラマ『ユミの細胞たち』を観ていた。5年ほど前、月に1度大阪へ出張に行っていたことがあって、そのときには窓から見える町がとにかくおもしろくて仕方がなかったのだけれど、久しぶりの旅は意外なほどに特別ではない。それでも東京をはなれるにつれて徐々に日差しが強くなってきたころ、ようやく実感がわいてきた。座席のテーブルの上で会社携帯の通知が立ちあがってくる。けれども今日は気にしなくていい。

時折うとうとしていたら、隣の学生が座席に頭の後ろをつけたまま、わたしのiPhoneの画面に視線を向けていた。問題集を解くのにくたびれたのか、実写とアニメがミックスされたドラマは、たしかに隣の人が観ていたら気になるものだろう。先に彼は降りて、わたしはほどなくして福山に到着した。

よく晴れていた。ホームからは福山城が見え、改札をでて仰ぎみると堂々たる天守閣がある。器用に旅をする友人におすすめされた駅前のホテルに着くと、16時過ぎだった。バッグの中身を軽くし、駅のアトレに入っていたキャンドゥでクラッカーを買う。前回はうまく鳴らせるか自信がなく、結局手ぶらのまま会場へ行ったが、今回はあれをやってみたいの一心で、3つ入りかつ中身がたくさん飛び出さなそうなものを選んだ。店内の有線放送だろうか、「GO GO サマー!」が流れてきて、KARAがすきだったといっていた人のことをおもいだす。後で連絡したいとおもいながら、駅を背に歩いた。



会場のふくやま芸術文化ホール リーデンローズは、オーケストラのコンサートも行われるようなホールで、外観からもあれだとわかるくらい目立つ。7月には純烈が来るのらしい、などとポスターをみながら入場を待っていると、会社携帯に、急ぎの案件が2つあるのですがどうしましょうかという連絡が入る。良いしらせだった。その場でメールをし、エントランスの前で電話をかけて少し話をした。不思議なことにこの日から、わたしは仕事面でおどろくほどにツイている。なにかしらの良い気をもって帰ってきたのだと信じている。

連絡を終えて18時すぎに入場し、急いでアルバムの先行予約に並んだ。発売前の4公演は直筆サインがもらえるのらしく、LPのほうはタワレコオンラインで予約していたが、CDはこちらに残しておいた。送り状に住所を書いていると、前に並んでいる人が世田谷区の住所を書いていて、なんだ、遠征の人いるじゃないかとひとりごちる。今おもえば、東京で離れて暮らす人に送ってあげるとかそういうことも考えられるのだけれど、このご時世に広島までライブを観にきたということがどうにも後ろめたく、それは開演直前になっても変わらなかったので、少しでも同じように会場へ来ている人を探していたのだ。

なぜかわたしがとても緊張した。3階席の5列目で、正直なところ後ろも後ろのほうの席だったが、かえってすり鉢状の座席から見下ろすステージはよく見えるような気がした。18時30分の開演を前に、あそこには誰がきて、あの台から声を張りあげて、などと想像が駆け巡り、会場を柔らかく包むようなドゥーワップがほとんど耳に入らないほど、ドキドキしていた。そうだ、クラッカーをひとつ袋から出しておかなければと、トートバッグのいちばん口に近いところにクラッカーを置いた。アカペラが流れた。

真夏の太陽を浴びた柑橘、あるいはよく熟れた柿のような色のシャツを着た達郎さんがステージに出てきた。せっかちにギターをかけて、BGMが消えきらないうちに演奏をはじめる。稲妻が走るようだった。胸がいっぱいになった。きらきらとまぶしく、つやつやと弾けるような音が弧を描いて飛んでくる。世界中どこの夜を探しても見つけられないような、ここにしかないうつくしい光景。まるでこの2年あまりを耐え忍んできたわたしたちが祝福されているようにさえもおもえて、じわっと涙がこみあげてきた。観たかった、聴きたかった、会いたかったのはこれだとおもった。

ライブはつつがなく進んだ。だいすきな『POCKET MUSIC』のなかでも、どうしても湿っぽくてきらいだった「シャンプー」を、達郎さんがキーボードで演奏する場面があった。そんなふうに弾いたからってだまされないとおもった。髪の毛の歌には一家言ある。誰かに話してやろうとおもいながら、会場の静かな視線を一身に集める達郎さんを眺めていた。

その時は急にやってくる。イントロクイズでも始まったのかといわんばかりの勢いで皆がスッと立ちあがった。絶対に前半の方は誰も真剣に聴いていない(とおもう)。なぜなら絶好のタイミングを待って、そわそわしている人ばかりだからだ。わたしもそのひとりだ。今だ、とおもい、右手で強く紐を引っぱった瞬間、四方八方からパパパパンッと破裂する音が鳴る。左手で持つ筒が熱い。火薬の焦げるにおいが一面に広がり、それに気を取られてあまりよく聴こえなかったが、達郎さんは「今日はもう終わり〜」と言っていたような気がする。

この日は2公演目ということもあってか、まだ慣れていないと繰り返し言っていたけれど、それにしては饒舌だった。前日に『BRUTUS』で読んだことをほとんど一言一句違わずではないかとおもうほど正確に話していた。来年キャリア50周年だそうだ。子どものころ、きっとよくわからないうちから親しんでいた達郎さんの音楽を間近で聴いている、その因果におかしさとありがたみをおぼえながら、「ええお客や」を3回繰りだして上機嫌そうな達郎さんをずっと観ていたかった。

ホテルに帰ってきてから気づいたSparkling Pop


翌朝、初めて見る番組をつけながら荷物をまとめた。直筆サイン色紙が折れそうで心配だ。ナイキのエアリフトを履いて、福山城へ歩いた。天守閣は工事中だったけれど、前日に続いてよく晴れて気持ちがよかった。階段を下りているとマスク越しにもわかる甘い香りがただよってきて、生垣の花に鼻を近づけてみるとそれだった。わたしの様子を見た人が、向かいから歩いてきて同じように花の香りをかいだ。

福山駅周辺には博物館や美術館が集まっている。わたしはふくやま文学館と広島県立歴史博物館へ行った。ふくやま文学館ではリラックマうさぎのモフィ、おふとんさんなどの生みの親であるコンドウアキさんの作品展が開催中で、リラックマを愛し、就職活動でサンエックス株式会社の面接を受けたこともあるわたしとしては見逃せないイベントである。館内では主に原画が展示されており、キャラクターの絵本だけでなくエッセイや教科書の表紙まであったので、目を皿にして見た。感想を語りあえる人が誰もいないので、湧きあがる感想が喉から出てこないように押さえこむ。会場限定グッズを端から端まで買いたかったが、荷物を増やしたくないので断念し、歴史博物館へ向かう。

博物館から出て、行くと決めていたミールスの店へ歩いた。駅とリーデンローズの間あたりにあるので、前の日にライブへむかうのと同じ道を通って、なるべく記憶をなぞった。住宅街に黄色い屋根の店を見つける。
実山椒とチキンのミールスにワダをつけてもらった。優しく繊細な味の中に山椒がピリッと効いて、疲れた体にしみる。

なぜ横向きに撮らないのか

帰り際、お店の方と話がしたくて、東京から来たんです、と言いだしてみる。どうして福山へと聞かれたので、昨日そこで山下達郎のライブを観に、というと、なんとお店の方のご家族も観にいっていたのだと教えてくれた。1階席の5列目だったと聞いて、そこから見えるステージを想像した。また来たい、次はいつ来られるだろうかとおもいながら、福山駅へ戻る。週明けに会う人たちのことをおもいうかべ、その数だけもみじ饅頭をひとしきり買って新幹線に乗りこむ。さっきまでのからりと晴れた空はまぼろしだったのか、旅の記憶を洗い流すような雨に追われて、東京へ帰った。