磨硝子日記

すりがらすのブログ

本についてかんがえていること

このところとみに本を読めるようになった。

去年あたりからささいなことに気が散って、集中して活字を追うのがむずかしくなり、ページに目をおとせば視線が文字の上をつるつるとすべってしまって、内容が頭にはいってこないことがままあった。
趣味は、と訊かれれば「読書です」と答えていたのにこの体たらく、とかなしくなっていたけれど、年明けからはゆったりとした心もちをとりもどし、いまでは視線は活字をつぶさにとらえられるまでになっている。


大学時代に書店でアルバイトをしていた。

大学にはいったら本屋かCD屋(当時は「レコード屋」という単語を知らなかった)でアルバイトしようと決めていて、近所の書店とCDショップに応募を検討していたのだけど、CDショップには金髪のいかつい店員さんがいるという理由で、書店のほうに応募して、そのまま4年間身をやつした。

いまおもえば、CDショップのほうにいっていたらほんとうに人生がちがっただろうなあとおもうし、きっといま聴いていないような音楽に出会っていただろうとおもうのだけど、書店では、わたしにいま聴いているような音楽を教えてくれた友達に出会ったし、結果的にはよかったのかなとおもう。ちなみにのちにわかったことだけど金髪の店員さんは心やさしくてとてもいい人だった。



わたしが書店で働きはじめた理由は至極単純で、本がすきだったからである。

ただ「本がすき」というのにもいろいろあって、たとえば、本を「読む」のがすきな人もいるし、実体としての「本そのもの」がすきという人もいるとおもうけれど、わたしは後者のほうで、まずもって「本そのもの」がすきなのであった。

大きさ、重さ、厚み、表紙のデザイン、文字のかたち、さまざまな紙の手ざわりや透け具合、印刷の色や凹凸、栞紐の色など、ある本のために作り手たちの叡智とおもいの丈が結集したさまを手にとってあじわえるというのはとても趣があることだとおもっている。


以前、スタイリストであり、おすすめ本を紹介する連載をもつほどの本好きであることでも有名な伊賀大介氏のトークショーに行ったとき、伊賀さんが「栞紐の色」について「本を読んでいるときに栞紐が何色か予想していて、読みすすめて栞紐がでてきたときに、その色が予想どおりだとテンションあがる。この本は黄色だな~っておもいながら読んでいくと、ほらやっぱり黄色だった~みたいな!」というようなことを喜々として話していて、その並々ならぬ愛のこもった発言に心をわしづかみにされたのであったが、記憶をたどってみても、小学生のとき、クラスの物静かな男の子が読んでいた『ハリー・ポッター』のオレンジ色の栞紐が妙に目に焼きついているし(1冊読むのに時間がかかるのでだんだん読んでいるうちに栞紐がほつれてきて、椅子のうしろにつけている防災ずきんのカバーのなかからとりだすたびに、みつあみのほどきかけみたいになっていたことも覚えているし)、いまでも本を買ったらまずカバーをはずして表紙、裏表紙、背表紙のデザインをみたり、帯のコピーをくまなく読んだりするのが常であって、モノとしての本がすきなのは、ずっとかわっていない。



もちろん、本を「読む」のもすきだ。とはいっても、いままで「この人は文字どおりの本の虫だなあ」とおもう人にたくさん出会ってきたから、その人たちにくらべれば、わたしは本を「読む」ことについてはかなわないとおもっている。

大学生のときにお付き合いしていた人は、外出するときにいつでも文庫を携帯していて(ときどきハードカバーの文芸書のときもあった、おもくなかったのか)、たとえば駅のホームで電車を待ちながら話しているときに横をむいたら読んでいる、料理を注文してメニューを閉じるやいなや手元の文庫を開くというようなあんばいであった。
彼の部屋は壁一面が本棚で、文芸書の新刊から名作コミックまでが色とりどりの背表紙をこちらへむけてずらりとならび、たいへん壮観であった。整然とならんだ本のなかから、ときどき、読みたい本を抜きとって読んだ。時間とお金さえあれば本を買いにいって読み、本棚におさめるという生活をしていた彼を、わたしはとてもすきだった。

自分以外の人がどういうふうに本を読んでいるのかをしると、なるほどそうやって本を選んでいるのかと感心することもあったし、どこからみつけてきたんだその本は、という本でも、その人の生活のなかでは出会うべくして出会っている本だったりするからおもしろい。

ツイッターやインスタでフォローしているアカウントひとつで、身体のまわりをかすめていく情報はまるでちがうくらいなのだから、住んでいる場所も、起きる時間も寝る時間も、食べるものの好みも、すきなテレビもラジオもちがうなら、本の好みも、本の存在感もぜんぜんちがうというのは自然なことだ。

彼に出会ってから、わたしは本を「読む」ことについてはそれほど得意ではないとおもうようになった。けれども、わたしにとって本を読むことは必要なことだ。
「本は嗜好品だから衣食住に関係ない」という人もいるけれど、生活の余白をすきなものでできるだけうめておけば、時には毛布にくるまっているようにあたたかな心地にもなれるし、少しぐらいの空腹はしのげる。
日常生活なんて、衣食住にかかわるような「なくてはならないこと」よりも、「どうでもいいこと」を「どうにかしてゆたかなきもちですごすこと」が大切だ。だから本を読んでいる。



最近は、新刊書店でも、古書店でも、ほとんどなんにもしらない状態で、タイトルをみておもしろそうだとおもったものを買っている。すこしでも興味があって買ったものであれば、あまり好みではなくても、なにかしら、しることはある(「これは好みではない」ということだってわかる)。
ちなみに早川義夫は自らのことを「本を知らない」といっているけれど、素人のわたしからすればまったくそんなはずはないわけで、しかしながら、ある分野にくわしくなればなるほど、まだまだしらないことがおおいなあと気づける人でありたいし、しっていればしっているほどに、なんにもしらないんだなあと自分をいましめられる人でありたいとおもっている。本の世界は大海原、わたしはまだ波打ち際で貝殻をひろいあつめながら、まだ見ぬ地平線のむこうへ、闇につつまれた深海へ、おもいを馳せているにすぎないのだから。



そんなふうに途方もなくおおらかなかんがえへ漂着してしまったためか、なにを読んでもおもしろいし、どんどん読みすすめられる。最近買った&読んだ本、それぞれは脈絡がないようにみえるけれど、おもいがけなくどこかでつながったりするのだ、きっと。なるべく心をひらいて生きていきたいです。
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1月のおわりのこと

3年ほど使ってきたiPhone 6のバッテリーがついに寿命をむかえて、充電ケーブルからはずすとほどなく真っ黒画面、なんならつながれたままでブラックアウト、ということがつづいたので、ついにiPhoneを買い換えることにした。

iPhoneて買い換えるとなれば、どういうわけか(どういうわけでもないが)いまより数字がおおきいものを買おうかなあそのほうがいいんじゃないのなにかと、みたいな気もちにさせられるけれど、数字がおおきくなるほどおニューのマーベラスな機能が増えてるという原則なのらしいから、iPhoneの機能なんて半分も使えてないんじゃないかとおもうくらいのわたしからしたら、もうこれ以上機能の向上なんてノーセンキュー!みたいな気もちでいたのだが、買ってきたiPhone Xはすいすい動いてかっこいいじゃないか。ちょっとおもくて手首がやられてしまってるけど、ボタンのないおおきい液晶に指で触れるだけでオーケー、クールである。Face IDという、顔認証でロックが解除できる機能なんてのもついていて、なんて近未来的。画面をぬっと覗きこむだけで、メイクしていても、すっぴんでも、多少顔のむきがまがっていても認識してくれて、南京錠が開くマークが表示されるとともに、ハイまたきたのかこんにちはといわんばかりにロックが解除されるもんだから、カメラのむこうにだれかいるんじゃないかってくらいの、なんというか不気味の谷へとつづく稜線に立っている心もちになることもあるけれど、アイドンケア。寝起きのぶちゃむくれた顔を認識できないあたりがまだまだあまちゃんで、かわいささえかんじます。ちなみにFace IDの悪用例として、寝てるときにだれかがiPhone Xをわたしの顔のうえにかざせば簡単にロック解除できるんでは、とかおもったけど、まだ試してはないです。


最近ありがたいことに、面とむかって「すりがらす」と呼んでいただくことがあり、そのたび、はずかしい&おどろきで顔がへたくそな福笑いみたいになってしまう。

「すりがらす」なんて、本名ぜんぜんかすってもいないし、へんな名前をつけたもんだなーとおもうし、いちおう理由あって名乗ってはいるけれど、初対面の方に自己紹介するときに「はじめましてすりがらすです」ってなんのこっちゃとおもっているし、ライブの予約をDMでさせていただくとつい「すりがらす1枚おねがいします」と伝えてしまって、なんらもなの極みであるが、おすきなように呼んでいただければさいわいです。面とむかって、おい、すりがらすって呼ばれるたびに、毎回、センキュ〜〜〜。(©︎柴田聡子)っておもっています。

夢のはなし

ここ最近はへんな夢ばかりみる。とはいえ、いまにはじまったことではない。過去のツイートを見返してみれば「へんな夢みた」だのなんだのとある。なんでか、実際にはおこらないようなことを夢でみてしまうのだ。それもけっこう頻繁に。

へんな夢をみたときにはわすれる前に「夢占い」のサイトで、その夢がどういう意味なのか、どういうわけでその夢をみたのかというのをしらべている。
たとえば「なにかに追いかけられる夢」は、さし迫ったストレスから逃げたいという深層心理があるとか、若干マユツバではあるけれども、みたくもないのにみせられたへんな夢によって目がさめた瞬間から動揺しているきもちに折り合いをつけるのにはちょうどよいのである。


去年のことであるが、「お米を炊いて恋人に食べさせる夢」をみた。これは、なかなかに衝撃的な体験である。
わたしが以前付きあっていた恋人の家におり、台所でお米をといで、炊飯器にセットして、炊きたてのご飯を恋人に食べさせる、という夢であるのだが、わたしは、きれいにといだお米を内釜にいれて水をはり、そこへなぜか、なぜかわからないけれど、食器洗い用洗剤をどばどばいれて、炊飯をはじめたのであった。真っ白なお米の上に、透明な水色の液体が円を描いてぐるぐるとかけられている様子は、いまでもはっきりとおぼえている。
そのあとそのお米は(洗剤の効果なのか)ふっくらと炊きあがり、わたしはその洗剤ご飯をお茶碗に山盛りよそって、食卓でまつ恋人にさしだしたのであった。恋人はにこにこしながらおいしそうにもりもり食べていて(おいしそうによく食べる人であった)、食後に彼がどうなったか描かれないうちに目がさめた。

へんな夢をたびたびみていたわたしであったが、この夢をみたときにはさすがに自分どうかしているのでは、とおもって、すかさず「夢占い」のサイトを検索した。
しかしながら、あらゆる夢を網羅しているサイトであれ「洗剤入りのご飯を恋人に食べさせる夢」なんていうカテゴリはなく、とりあえず「毒を盛る夢」でしらべてみる。
さすれば「他人に毒を盛る夢」というのは「毒を盛った相手によくない感情をいだいている」とのことであった。具体的にいえば、その相手を排除したい、蹴落としたい、攻撃したい、など。

寝起きのぼんやりとした頭でiPhoneをにぎりしめながら、すこしのあいだ呆然としてしまった。
彼にはもうおおよそ2年会っていないけれど、付きあっているあいだも、会わなくなってからも彼のことを排除したいとか攻撃したいとおもったことはない。それどころか、さみしいことをいうようだけれど、ふつうに生活していて彼のことをおもいだすこともなかったのに、突然夢にでてきた(でてきてくれた)ところへ、どういうわけかわからないが洗剤ご飯をさしだしたわたし。

きっとあのあとわたしはしれっと家へ帰ってしまっただろう。彼は残ったご飯を晩ごはんにももりもり食べて(かなしいほど気づかずに)、おなかをこわして、なにかへんなもの食べたかなあなんて誰のこともうたがわずに不思議がりながら、あの部屋のトイレの前でひとりでうずくまっているのだろうなとかんがえたら、とても申し訳ない気持ちになった。ポカリとか飲んでどうか死なないで。ていうか食べてる途中で気づいてよ。まあ夢なんだけど。


最近みた夢は「ヴェルタースオリジナルの工場見学をする夢」である。
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ヴェルタースオリジナルとは森永製菓から発売されている濃厚なバターキャンディで、おじいさんから孫へと受けつがれる由緒正しいキャンディなのだ(たぶん)。このCMで存在をしった人もおおいだろう。キャンディひとつで「彼もまた、特別な存在だからです」というコピーまでたどりついた大仰かつ強烈な印象をのこすCMである。

ヴェルタースオリジナル

夢のなかで、わたしは製造ラインの横でキャンディがベルトコンベアの上にならんで流れていくのをながめていたのであったが、その夢によれば、「ヴェルタースオリジナルはこの1粒にバター4かけら(=40g)が入っているのじゃ」とのことであり、わたしはぞろぞろと目の前をながれていくキャンディをみおくりながら意外なほど冷静に「ヴェルタースオリジナルはカロリー爆弾である」ということをしんしんとかんじていたのであるが、目がさめてから「あの1粒にどうやって40gものバターを、というかそれはもう飴ではなくバター」という結論にいとも簡単にたどりついて、ひさしぶりにみたファニーな夢についての愚察をおえたのであった。「キャンディの工場見学をする夢」ってなんの深層心理があるというのか。*1


ちなみに今朝は「学校に大蛇が襲ってきて追いかけられる夢」でした。大蛇とは、ハリー・ポッターにでてくるバジリスク。教室のうしろのドアをバリバリやぶって突進してくるバジリスク、妙に俊敏でパワフル、ゴーヤみたいなごつごつしたからだがつくりものっぽくて可笑しかったけれど、おっかなかったです。やや、さし迫ったストレスなんてなにもないんだけどな。
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*1:ちなみにのちにしらべてみたところ、ヴェルタースオリジナルは1粒あたり22kcal、バター40gはだいだい280kcalあるらしいです。夢でよかった、くわばらくわばら。

シャムキャッツ『このままがいいね』のこと

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2017年12月12日、日付が変わると同時にシャムキャッツからとどいた、すこしはやめのクリスマスプレゼント。新曲『このままがいいね』。


ドラムとベースが整然とビートをきざむイントロ。
よせる波のように徐々におおきくなるシンバルの音に導かれて、ギターがゆたかな響きで聴く者の胸をひたす。きらきらと輝く水面を写しとったようなエレキギターのフレーズ。じゃりっとした耳ざわりのよいアコギの音。


夏目くんの甘くやわらかい声でつむがれる言葉は、1行目から真っ向勝負だった。

どこにもない自由な時を
君と今 感じたんだよ

ほかのだれにも邪魔されない、いとおしい時。
忘れたいとおもうようなことも、これをすぎたらやってくる日々のどうでもいいことも、いまは横においておいて、目の前のことだけみつめたい時。


くりかえされるフレーズは、文字どおりの"シュアショット"となって、胸のど真ん中を撃ちぬいていく。

このままずっと 二人でずっと
一緒に居れたらいいね
このままずっと 二人でずっと
抱きしめたままがいいね

みずみずしくて、うつくしくて、だけれどもまばたきするあいだに終わってしまいそうな瞬間をとらえた歌詞に、風穴のあいた胸がじんとあつくなる。


前作『Friends Again』のなかで、夏目くんはこう歌った。

何にも縛られないで 生きるなんて
憧れてしまうよね ファニーフェイス 私もそう

あるいはツアーグッズ『Tetra magazine vol.1』のなかで、夏目くんはこの曲について

テーマはわがままでいることと自由でいることについて。そして、わがままではいられないし自由ではいられないことについて。

と話している。


シャムキャッツ『このままがいいね』は、日常のなかにあるいとおしい瞬間と、その瞬間がいつまでもつづかないことを歌った大名曲だとおもう。
だけれどもそこに、『Funny Face』にあったようなすこしの悲しさややるせなさ、アルバムに収められた写真を見返すようなノスタルジーはない。

繰り返すいつもの日曜
止まらないキスで埋めようよ

白い服と黒い服を着た夏目くんが、団地のまわりを歩きながらひなたと日陰をいったりきたりする。まぶしい日差しをうける夏目くんの足元にのびる影。光と影が象徴的なMV。

うつくしい瞬間が、通りすぎていく日常のなかにあってこそうつくしいことを残酷に教えながら、同時に、記憶の日陰に押しやられてしまっても、どこかでかならずきらめきつづけることの尊さを、シャムキャッツは力づよく歌う。


CD発売日前日の1月10日、ココナッツディスク吉祥寺店でおこなわれたインストアライブへいってきた。

当日の告知にもかかわらず、写真のとおり、お客さんがぱんぱん。寒いなか、駐車場からガラス窓ごしにみていたお客さんもいた。

ライブの前に書き初めをしたり、MVで着ていた着ぐるみをかぶって演奏したり。シャムキャッツの「ライブはもちろん、ライブの時間以外もたのしんでほしい」という心意気がほんとうにすきだ。


『このままがいいね』アコースティックバージョンもとてもよかった。このさき聴くとしたらバンドのバージョンだとおもうので、なかなか聴けないかもしれないから聴けてうれしかった。
お客さんは写真や動画を撮ったりしながら、みんなとてもたのしそうだった。ココ吉みたいなあたたかい雰囲気の場所であってこそできたことだとおもう。

ちなみにライブがはじまる前、たのしみすぎて浮き足だっていて、ココ吉のレジの前でつまづきました。はずかしかったです。


買ってきたCDをさっそく聴く。

テンポの速い曲調と、MVの抜けるような青空のおかげか、風をきってすすむときの爽やかさや疾走感があってここちよい。
のびやかな歌声に耳をかたむけていれば、いまみている景色をスローモーションで、あるいは時をとめてみつめているようにも感じられる。
アウトロがおわっていくときの、口のなかで綿菓子がとけたような、じんわりとしたしあわせのひろがり。


シャムキャッツはいつだって日常に寄りそってくれる。
「このままがいいね」。
先回りも、後戻りも、立ちどまることもできない日常のなかで、刹那的でもなく、楽観的でもない、自由をもとめて前を向く希望の言葉として、わたしたちのなかに響きつづける。



このままがいいね (Stay Like This) ー MV

ココ吉の放出へいってきた

f:id:slglssss:20180108222809j:plainきょう、ココ吉の放出へいった。

きのうの21時すぎにお知らせがでた。「突然ですが」とあるけれど、突然すぎるわい、とつっこみながら、まずは画像を保存して、拡大してみる。
放出リストを穴があくほどながめてもほしいとおもうものを確実にゲットできるわけでもないのに、これにしようかなあ、いやこれもほしいなあ両方はむりかなあなんてなやんだ。放出のたびに毎回やっている。

画面をつるつるとさわって、おおきくしたりちいさくしたりして、ひとしきりリストをながめおえて、もういっかいくらいたしかめて、じゃあほしいとおもうものを確実にゲットするにはどうすればよいのか、とかんがえたとき、「いちばん先にお店にはいる」という至極単純な解を得る。毎回やっている。
それしかないとおもったから、がばっと起きて吉祥寺へむかう。あたまがぼんやりして、夜ふかしした自分をうらめしくおもう。

駅からお店まで、きらびやかな晴れ着姿の女の子を何人も見送りながら歩く。正確にいうと早歩きくらいかもしれない。さむかったけれど、お店についたら、きもちがはやったからか、さむさをかんじなかった。


扉の前で待っているあいだ、早川義夫『ぼくは本屋のおやじさん』を読んでいた。
大学生のころ、4年間、書店でアルバイトをしていたのだけど、社員さんがいってたあれはそういう意味だったのか、なんていうふうに、そのころのことをあざやかにおもいだせる、そして、そのときに出会えていたらよかったのになあとおもうような、とても健康的ですばらしい本屋さんの話。わたしは本もすきだけど、「本屋さん」がすきだから、この本がとてもすきなのだ。


放出は一瞬のできごとなのであんまりおぼえていない。コメントカードちゃんと読む時間なかったな、読んでおけばよかった。でも、ほしかったものをなんとか買えたのでうれしい。



放出のあと、ユリイカサニーデイ・サービス特集号を読みかえして、やっぱり今年もココ吉にかよってしまうなあとおもった。


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年末年始のこと

あけましておめでとうございます。

年末年始のことをぼんやりしるしておきます。
今年もよろしくおねがいいたします。


12月27日
年賀状を書いて、夕方ココ吉へいく。

大掃除をしていたらしく、どこからかでてきた在庫なのか、きょうは放出だったっけかとおもうようなのが面出しされていた。
ほしかったあこがれのをみつけてしまって白目をむきながら買う。


12月28日
中学時代の友達とふたりで忘年会をする。

吉祥寺のいせやの近くのお店でまちあわせをして、ふたりそろっておちあう前にiPhoneの電源がおちるというあほあほ具合であったが、なんとなく合流した。

彼女はわたしが10年以上かかさず年賀状をおくっているひとり。

なんにもかんがえずにどんどん注文してがつがつたべながら、話したってどうにもかわらないことをこねこねとこねた。
めずらしくお酒をのんだ。
帰ってからすぐに新年会の約束をとりつけた。


12月29日
柴田聡子の神保町ひとりぼっちへいく。

柴田さんは鮮やかな黄色のモヘアニットを着ていた。かわいい人が着るモヘアニットはかわいいの2乗だ。
この日はテナガザルみたいな茶色い動物のプリントされた白のスカートをはいていた。こういう攻めているファッションもめちゃくちゃに好みである。

2曲目に歌っていた、箱のなかにはちばてつや、みたいな新曲がとてもすきだった。『後悔』みたいにヒットしてほしい。柴田さんが大ヒットしてほしい。

まえに宇多田ヒカルのカバーをやってくれたときがあったけれど、安室ちゃんのカバーもよかった。柴田さんは歌姫なのだ。

『Baby Don't Cry』、『ヒミツの花園』の主題歌だったんだな。堺雅人のシャギーな髪型がかもしだす爽やかな王子感とうすはり氷みたいな儚さがなつかしい。『アフタースクール』の木村がだいすきだ。エッセイがひらがなだらけなのもだいすきだ。『鎌倉物語』をつぎのレディースデイにみにいこう。


12月30日
年末の番組表は大股でくぎられた色つきの帯。

アメトーーク!の年末スペシャルをみる。
サンドウィッチマン伊達さんの0キロカロリー理論、東西ネタ合戦でみられたけれど、今年もアメトーーク!でみたい。


12月31日
家族と親戚と紅白をみながらお寿司とケーキをたべる。
シャムキャッツ夏目くんの「エ~~レ~~カ~~シ~~ま~~だ~~」ツイートをみて笑う。
去年はたしか「聖子ちゃんやっぱ歌うまい」みたいなことをつぶやいていて、夏目くんのそういうところほんとうにすきだ。

日付がかわる。
さっきまで並んでいた料理、味もみためもなにがかわるわけでもないけれど、なんでか、2017年につくったこれを、2018年になってちょっとたべてみる、ということにどきどきする。
子どものころ、おなじように親戚とテレビをみながらカウントダウンをして、HAPPY NEW YEAR!とでたすぐあとに、「去年は大みそかにみんなでご飯食べたよねぇ」なんて10分前のことを話したりしたのだ。
日付を書けば2018年、アルバイトをしていたときには領収書の日付を間違えるなといわれていた。

みえない日付変更線を気づかないうちにまたいで、2017年が記憶のなかへ収納されていくのをみおくりながら、すこしだけ時間を逆走して、山下達郎のサンデーソングブック 年忘れ夫婦放談を聴いて寝た。


1月1日
レコード屋さんにいっていい感じのレコードを買う夢をみる。
ちなみにお店はいったことのないレコード屋さんでたぶん存在していなくて、買ったレコードはみたことがない、おそらく架空のものなのだけれど、買いながらよろこんでいたからよかったんだとおもう。

イラストレーター oyasmurさんのミックステープ、年末年始によく聴いていた。
買ったときにはしらない曲もおおかったけれど、だんだんとしっている曲がふえてきてうれしい。まえからしっていたユーミンの『あなただけのもの』がぐんとたちあがってくるようになって、ますますうれしい。
秋田にあるコーヒーとカセットのお店、のら珈琲へはやくいきたい。

ゴッドタンのマジ歌にEMCがでていてうれしい。ゲンホシノもきっと泣いてよろこんでいる。


1月2日
初夢というのは1月1日の夜にみて2日の朝に気づくものだというけれど、2日の夢はへんだった気がするから、1日のを初夢とする。

箱根駅伝をみる。
箱根駅伝とか高校野球とかにでている男の子の年齢をいつのまにか追いこしてみると、この未来ある若者たち、このまま幸せに生きていってくれ、運動がんばって、くれぐれもけがはしないで、そのまま洋洋とひろがる前途を歩んでいってくれ、というきもちである。


1月3日
新宿へルミネのセールをみにいく。
ルミネエストのHERBSの前などがいつもにまして大混雑しており、歩くのもたいへんなくらいだったけれど、こんなのは想定内である。

セールへいったときにやってはいけないのは『○%オフ』という字面に惑わされることである。
蒼井優が菊池亜希子との対談ではなった「高い買い物は日割り計算」という金言を胸に、ショッパーを3つかかえて帰る。

『許さないという暴力について考えろ』における柴田聡子のこと

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12月26日(火)、NHK総合で放送されたドラマ『許さないという暴力について考えろ』。
又吉直樹がはじめて脚本を執筆した、渋谷を舞台にした物語。ふれこみだけで期待がたかまる。

TLに柴田さんからのお知らせがながれてきたときには、まじかとおどろき、普段ドラマをあまりみないわたしだけれど、絶対にみようとこころにきめた。

ちなみに柴田さんと渋谷といえばこれしかないですよね。電話口で「うー・・・あー・・・」と考えあぐねる聡子が最高で最高のやつ。

どついたるねんMV 大嫌いfeat.柴田聡子


物語は、渋谷という街について取材をするテレビディレクター 中村(森岡龍)が、通りがかりの服飾デザイン専門学生 チエ(森川葵)に街頭インタビューをするシーンからはじまる。f:id:slglssss:20171227232951j:plain

中村「あなたにとって、渋谷とは?」
チエ「渋谷・・・好きなんですけど、なんかたまに怖いなぁと思うときがあります」
中村「それは、治安とかそういうことですか?」
チエ「なんか、人に厳しいというか、許さないというか」


中村はあるとき、閉店間近のカフェで、店をでるよう紋切り型にいって店内の椅子を片づけはじめる店員を、客の男が「なんでコーヒー買って嫌な気分にさせられなきゃいけないの」と怒りつける場面に居合わせてしまう。ふと気がつくと中村のとなりには正体不明の老婆(宮本信子)が。店員にまくしたてる男をみて、老婆がつぶやく。
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老婆「そんなに怒らなくっていいのにねぇ。なんで許せないんだろうねぇ。」

その後も中村は、渋谷と人とのかかわりについて取材をつづける。
とちゅう、恋文屋をしていたというおっさん(でんでん)と出会って虚実ないまぜのできごとにでくわし、ふたたび老婆に出会う。
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老婆「怒りはおさまったのかい?」
中村「えっ?」
老婆「いらいらしても仕方がないでしょ?あんたのために、みんなが生きてるんじゃないんだからねぇ」

「なんで許せないんだろうねぇ。」
カフェで店員を怒鳴りつけたのは、中村自身であった。

それだけではない。タクシーを運転しながら陽気に歌う運転手に「客が乗っているときに歌わないで」と吐きすてて下車したのも中村なのであった。

老婆「こっちで、勝手に誰かを理解できないものとして排除してしまうようなことが、この街にも起こってて、どっちが怪物なのかわからないよね」

中村は、自らの「他人にたいする不寛容さ」に気づく。
同時にそれは、渋谷という街にあつまってくる人々の「許せないという暴力」でもあるのだ。


アパレル業界で活躍するチエの先輩もまた、つねに最新コレクションを身にまとうことを至上のよろこびでありステータスであると感じ、1年前に買った服を身につけるチエを「センスがない」として許さない。

そんなチエを見守るのが、漫画家で「強烈な自己を持った姉」(柴田聡子)である。
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寝巻にざっくり編みのカーディガン、ヘアバンドで前髪をあげ、首肩用のゆたんぽを装着。あたたかそうなルームシューズ。家からしばらくのあいだ一歩もでていなさそうないでたち。トレードマークのめがね。おれたちの聡子が光輪、もとい、降臨。
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姉「お昼にねぇ、ハンバーグをつくったんだが、焦げた」
チエ「ちゃんと油ひいた?」
姉「(フライパンをみせながら)みてくれ。焦げたところが悪魔に似てるんだよ」
チエ「もういいよそういうの、怖いから」
姉「生ごみみたいなにおいだが食うか?」
チエ「食べないよ」

これはあれか新曲を聴いているのか。次はハンバーグソングなのか。ていうか柴田さんがハンバーグつくってるところ想像しただけでかわいい。ひき肉こねてるだけでかわいい。フライパン焦がしてもかわいい。
それからこの独特のキャラ設定。言葉づかいがなんとも変わり者らしいけれど、それを柴田さんのやさしい話し方でいうと、自然と腑におちる感じがする。聡子すごい。
ちなみに柴田さんがチエちゃんにつくったハンバーグこちらになります。しばっさんかわいい~!レッツゴー!
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チエは先輩たちに後れをとるまいと、必死についていこうとする。部屋には、渋谷で生きていくために買いあつめた洋服があふれている。
そんなチエをみて姉はいう。

姉「チエちゃん、服買ってばっかいるけどつくんないのか?」
チエ「つくるためにいろいろ勉強してるよ」
姉「いつかやるっていうのと、実際にやるのとでは、大きな距離があって、タイミングを間違えると、永遠に始めらんないぞ」

このお姉ちゃん、先輩についていくことだけで精いっぱいで、夢にむかってどうがんばればいいのかもわかんなくなって自分を見失っているチエちゃんにたいして、なかなかに金言をさずけてくれるのだ。
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姉「チエちゃんは、人にやさしくすることは得意だけど、自分を許すことが、たまに下手になっちゃうんだよね。」
チエ「お姉ちゃんはさ、わたしとか先輩のことばかにしてんじゃない?わたし毎日渋谷で遊んでるだけじゃないよ。いろいろみて、ちゃんと勉強してんだから」
姉「チエちゃんをばかにしたことはない。でも、チエちゃんを傷つけるやつはばかだよ。ただし、いなくていいとは思わない。」
チエ「え・・・」
姉「いかれてるようにみえる渋谷って街がどこかに飛んでいってしまわないのは、そこに存在している人たちの質量が、しっかりとあるからなんだよ。」


どこからともなく人があつまってくる街、渋谷。夢をおう人も、出会いをもとめる人も、昔のおもかげをさがす人も。なんでもない人も。
だれであっても受け容れる懐の深い街、渋谷。それをいいことに、人々はそれぞれにちがう形をして渋谷にあつまって交わる。ときにぶつかる。

チエ「お姉ちゃんはいいよね、絵が描けてさ」
姉「チエちゃんも描けるよ」
チエ「子どものころ、お姉ちゃんと一緒にわたしも絵画教室かよってたけど、ぜんぜんダメだったじゃん。怒られてばっかりで。お姉ちゃんばっかりほめられてさ。」
姉「覚えてないのか?わたしは暗い色ばかり使ってて、いつもチエちゃんの絵にあこがれてたんだよ」

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渋谷という寛容の街に暮らして、お姉ちゃんは、自分とはちがう他人を許し、認めて、また他人のことを許せる自分のことを許し、愛しているのだ。


他人とちがうのがこわいから、無理をしてあわせようとして、自分を見失う。それどころか、他人にあわせようとしない人には衝突して攻撃し、排除しようとする。

だけれどもほんとうはだれしも、他人とはべつの、ひとりだけの存在なのだ。
だからこそ、自分とはちがう他人を許す。そういうふうに、だれかを許せる自分を許す。

柴田さんの口から、このことが語られたのがうれしい。ほかのだれでもない、だけれどもまわりの人を愛して、まわりから尊敬されるシンガーソングライターの柴田さんの口から。


映像を勉強されていたから演技ははじめてではないかもしれないけれど、テレビ画面でみる柴田聡子の存在感はなかなかにどっしりとあって感激する。
ひょうひょうとしていて、スクランブル交差点のような猥雑さからはなれて生きているようにみえて、本質をぐさりと突くお姉ちゃんが、柴田さんの人柄とかさなって、いっそう柴田さんをすきになった夜であった。