磨硝子日記

すりがらすのブログ

ハイヒールを履く日

このごろハイヒールを履いている。かかとの高さは7.5センチ。通勤用としてはすこし高めのヒールだと思う。もっぱらフラットシューズで通勤していたけれど、なんでか、これではいけないと思って、アダムエロペへ行ったのだった。
そう、前にお店で見たとき、店員さんに「これなら走れますよ」といわれて、ほう、と思ったのだった。別に走らないけれど、走れるくらいなら、歩くのは余裕で歩きやすく、そしてクッション性にもすぐれているというから、きっと、夕方に足が痛くなりにくい、そういうことなんでは、と期待した、ほんのり。
ハイヒールというのは、きちんと自分の足にあうサイズを選んだとしても、どうしたって足の裏に負担がかかっているのは間違いなく、特に長い時間履いていると、足の裏の、つま先立ちをしている時に地面についてふんばっているところが痛くなる。つま先立ちを1日しているみたいなことといえば、ハイヒールを履かない方にも伝わるだろうか。
だからこう、ハイヒールはかならず足が痛くなるもの、と思っているわたしにとっては、走れますよとか、クッション性にすぐれてますよ、といわれると、すごく、急に心づよいし、きっとみんなそう思っていると思う。実際、そういうことをうたって、ほんとうにそうなのかはわからないし、足の形があわなければ、機能のよさは感じられないと思うから、なんというかむつかしくて、そんなに全面的に信じているわけでもないけれど、でもやっぱり、「いかにこのハイヒールは足に負担がすくなくなるかに心を砕いて作られているか」ということをうたってあると、なんか、そうなのかなと思う。
というわけで、ハイヒールを履かないわたしも、このハイヒールのことはなんだか頭の片隅にはあって、「そうだ、ハイヒール履こう。」よろしく、思いたって買いにいった次第なんであった。

そもそもどうして、ハイヒール。それは、なんというか、「かっこつけるきもちよさ」を、久しぶりに味わいたいと思ったから、というのがいちばんの理由である気がする。
ハイヒールを履く。すなおに、ぐっとかかとを上げて、すこしだけ高いところから、いつもと同じ景色をみる。そうすると、背筋がしゃんとまっすぐ伸びて、目線が上がって、遠くまでよく見えて、目の前にある世界がじつはこんなに広くて、それまでは見えていないものばかりで、でもここからは、こんなにたくさんのものが見える。胸のなかを、新鮮な風が通りぬける。とにかく胸をむんと張って歩きたくなる。そういう、すこしだけ背伸びをするときの、いまわたし、かっこつけているな、きちんとしようとしているな、と感じる、すがすがしさ。凛とする、すっきりしたきもち。そういうのを、きちんと味わいたい、それも特別な日ではなくって、毎日の通勤の、いつも通りの日に。

たとえば今朝、髪をきれいにととのえたとき、おろしたての白いシャツに袖をとおすとき、赤い口紅をつけたとき、いい時計を身につけたとき。これで今日1日をがんばろうと思うような、少し胸がどきどきして、体中に力がみなぎるような、そういう感覚はありませんか。わたしは、けっこうそんなことばっかりで浮かれています。いつまでも何度でも、新鮮でみずみずしいきもちで、今日をがんばる、また明日もがんばる、ときたま休んで、また、気が向いたらちゃんとかっこつける。最近なにかとあわただしくて、「かっこつける」ことを忘れていたな。かかとの高い靴をわざわざ履くのはどうしても面倒くさくて、毎日らくちんな靴ばかり履いていた。そしたら、もうほとんど、足の裏でべたべた歩くようになってしまって、このままいけば足が地面にめりこんでいたのじゃないかという勢いであった。もちろん、全然調子のわるい日もあって、むしろそんな日の方が多くって、いろいろなことを、どうでもいい、すべて投げ捨ててしまいたいと思うこともあるけれど、なんとかこらえて、またハイヒールを履けば、すこしだけ、つよくなれる。胸のなかに新しい空気をたくさん取りこんで、かかとを鳴らして歩こう、そうすれば、なかなか、楽しいものである。

わすれたいことをわすれたいときに

わたしはお酒がのめない。
もともと、お酒をすごくのみたいと思ったこともなかった。成人のお祝いにもお酒を口にしなかったくらいだ。
大学生の時、飲み会ではだいたい1杯目にカシスオレンジをのんで、そのあとはずっとコーラやウーロン茶をのんでいた。そのうちに1杯目からウーロン茶を注文するようになっていった。単純に、自分はお酒がつよくないと感覚的に思っていた。ひとくちのんだだけでかーっと顔が熱くなって、次に目の奥が熱くなる。そこから開放的な気持ちになったり陽気になることはなく、すぐに胸がどきどきして気持ちわるくなる。で、眠くなる。友達といるときなら、しずかにすうすう寝ていることもできるけど、会社の人といるときに寝ることもできないので、会社にはいってからはますますのまなくなった。それと、もうひとつの理由としては「カシスオレンジ」をたのむのがはずかしいというのがある。まずビールをたのむのがなんとなく定番なのはわかるけれど、いまにいたるまでビールは2回しかのんだことがなく、味はよくわからない。まだおいしいと思ったことがないから、なにかジュースみたいにあまいのがいい。ビールで!と同じくらい、どこの居酒屋でもだいたい通用するのはカシスオレンジのような気がする(すりがらす調べ)。でもみんながビールなのに、か、カシスオレンジで!と発言するのもはずかしいし、そもそもカシスオレンジをわざわざ注文するのは、なんかこう、かわいい飲み物だから、わたしと不釣りあいだなと思えて、さらにはずかしい。ちなみに味はあまくておいしいと思っているけど、食事にはあんまり合わないと思う。

はじめて食事に行く人に、お酒飲める?とかお酒すき?と訊かれること、よくあると思うけど、わたしはきまって「わたしほんとに、1滴ものめないです」とこたえることにしている。正直いって、「1滴も」というのはいささかおおげさだけど、はじめて食事に行く人の前で眠りだしても迷惑なので、そう答える。べつに、お酒をのんで眠りこくったことがあるとか、べろべろによっぱらって失敗したとか、そういうことはただの1度もないし、眠くなったとて本気で寝たことはない。わたしはのめないですけど、あなたはのんでください、というかんじで、お店は居酒屋のほうがむしろ気楽でよくて、相手の人がお酒をのんで赤くなったりたのしそうになっていくのをみているのが、なんでかたのしい。自分の悪趣味さにはあきれるけれど、しらふのわたしの前で、普段はみせない、ゆるんでいくところをみせてくれるのはうれしい。ほろ酔いの人をみながら、内心どきどきしている。

ライブの時も同じで、ドリンクチケットで引き換えるのはきまってコーラである。そう、あのノズルからしゃーっとでてくるコーラである。常温のコーラでカップにセットされた氷がすこし溶けて、氷のまわりだけがつめたくなったコーラを、ライブハウスのはしっこで背中をまるめてすすっている。神保町試聴室にはお酒以外にハーブティーが何種類かあって、1杯目のお湯がなくなったら足し湯をしてくれるので、よくのんでいる。ばんざい。
でもみんながのんでるハイネケンは、緑のボトルがかっこよくて、うらやましい。ライブのときは、ちょっとだけお酒をのんで、ほわほわした頭でゆらゆらゆれてみたら、気持ちいいのかなと思ったりもする。夕方の野外フェスですずしい風にふかれたり、くるくるまわるミラーボールをみながら、音楽を聴いて、いい気分になれたらいい。しかし、そんなにつよくもないお酒をほんの少ししかのんでいなくても、次の朝、体が鉛のように重くて起きられない。ひとときの気持ちよさが、半日ぶんの後悔になることを考えて、しゅわしゅわと炭酸をのむ。半分くらい、たのしみきれていない気がするけれど、最近ではお酒の力なしで、音楽を聴いて、酔っぱらったときのようなふわふわの心地になれるようになったので、なにごとも鍛錬だなと思う。

お酒をのむとはどういうことだろう。わたしの体はたぶん、アルコールをうけいれてくれないと思うし、このさきも無理してお酒をのめるようになろうとは思っていないのだけど、お酒をのめたなら、たまにのんでいると思う。じつはこのあいだの出張で、ホテルの部屋にひとりでいるとき、どうにもこうにもお酒だ、と思って、コンビニへ買いにいく寸前であった。結局、明日の朝起きられなかったら最悪だから買わなかったけれど、なんだか、すこしあたたかくてぼんやりした頭になりたかったんだと思う。たとえば長い休みのあいだや旅行先でならほんの少しのむこともあったから、とにかく翌朝のことを考えずにいい気持ちで眠りたいときには、のんでみたらいいのかもしれないと思う。そうすると、なにがいいのか、といえば、きっとやっぱり、なにかわすれたいことをわすれられるんだと思う。明日のことや昨日のこと、見つめる先の現実とも切りはなされて、わたしはほかのなんでもなく、ぼんやりとしたひとりのわたしになる。やりのこした仕事も、ほれた人の記憶も、ぜんぶうずまき状にぐるぐるになってわたしからはがれて、目がさめたら、うずまきは元どおりになって、再びわたしのまわりにぴったりとまとわりついている。わたしは部屋のなかにぽつんといる。あまやかな気持ちよさのあとに、後味のわるいだるさがやってくるのが、とてつもなくわるいことをしたような気がする。
そんなわけで、わたしはお酒がのめない。

柴田聡子『愛の休日』のこと

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最近はもっぱら柴田聡子の『愛の休日』を聴いている。もうずっとずっと待望していたので、毎日、朝の1曲めを『スプライト・フォー・ユー』ではじめられるのがしあわせだ。

『ゆべし先輩』のMVは全編うすぼんやりかすみがかった映像で、先輩と柴田さんが半分夢のなかにいるような感じでよかった。柴田さんが神保町試聴室で先輩を想いながら歌うシーンをみて、次回試聴室行ったら絶対にこのシーンのこと思いだすだろうなあと思った。

柴田聡子「ゆべし先輩」(Official Video )
ところで、ゆべし先輩って、わたしはずっと男性の先輩だと思いこんでいた。どんくさくて、なんでか目がはなせない先輩。先輩ががんばっているところ、誰も気づかないかもしれないけど、わたしはこっそり見ているよ、いつもかっこいいです(だからぷにぷにさせてほしいな)、みたいな先輩。だから藤村さんがほんとうにすばらしい先輩の演技をしてくださって、感動した。先輩はテニス部に入り直して大正解だ。先輩と柴田さんが、最後、放課後の誰もいない教室で何話したのか、どうなったのか、そんなことをいうのが野暮なのはわかっているけれど、気にせずにはいられなかったな。残業終わりに、提灯のあかりに照らされた桜並木の下を歩いていく先輩、くるしくてすてきだった。せんぱ~~~い。

あと、柴田さんのライブによく行かれている皆さまにおかれましては、『後悔』って、このアルバムのなかでいちばん、大化けしているといっても過言ではない、すんばらしい曲だと思うのですが、いかがですか、最高ですよね。

柴田聡子「後悔」(Official Video )
試聴室で聴いているときから、バッティングセンターでスイング見て抱きしめたくなっちゃうっていいなって思っていたけど、最初から最後まであらためて聴いてみたら、なんかそういう、ほれちゃってうれしい、みたいな曲じゃなかった。むしろ、すきな人のこと考えて、勝手に舞いあがっちゃってたな、みたいな曲なのかな。でも曲はとってもかろやかで、柴田さんの曲でこんなにのりのりなのは初めてでたのしい。MVの最後で、後部座席から身をのりだした柴田さんの髪が風にそよそよ吹かれているけれど、コーラスもそよ風のように吹きぬけていて、湿っぽくなくからっとしていて、そこへきてタイトルは『後悔』で、えええみたいな感じだけれど、これが柴田さんのいう「泣き笑い」ってことなのかなと思ったりした。陽にあたった柴田さんのお顔、つやつやでかわいい。

4曲めの『あなたはあなた』、なんというか、誰がなんといっても名曲で、弾き語りもバンドもすばらしい。これは、あらためて歌詞がいいなって。
たとえばこの一節。

放っておいてとも思わないの
わかってくれとも思わないよ
好かれても嫌われても人と人とのことだもの

特にこの3行めとか、すごいキラーフレーズだと思う。すごい。
あと、最後のところ。

胸のつかえに目薬さしてくれたあなたと観覧車
高いレールの上を走る黄色いふたり乗り自転車

もうなんか、柴田さんすごいなって、このアルバム聴いてずっと思っている。

ちなみにこれはわたしの推測なのですが、『天使をみてる』に

きのう夜おそくにきみのつくった映画を見たよ
雪景色のなかでおどる女の子

という歌詞があるけれど、これは柴田さんの親友、岡本まな監督の映画『ディスタンス』のワンシーンのことじゃないかなと思った。

映画『ディスタンス』予告
この映画の舞台挨拶がある回に行って、柴田さんとシャムキャッツ夏目くんのトークショーをみてきたんだけど、監督がおなかに赤ちゃんがいて、北海道から東京へ来られないから、FaceTimeかなにかで会話をしていて、その様子を観客がみまもるという、なかなかおもしろい感じだった。
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そうそう、ココ吉矢島さんが書いた『愛の休日』のポップが写っている画像を、待ち受けにしました。毎日つよく生きていけそうです。

5月のこと

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ようやっと暑い日になれてきたかと思えば、すこしの雨の日がつづいている。今年のゴールデンウイークはほんとうにゴールデンだったなと思う。カネコアヤノちゃんのココ吉インストア、友達とごはん、小杉湯フェス、岡村ちゃんのライブ、友達とごはん、台風クラブのライブ、友達とごはん。もうずいぶん前のことみたいだけど、毎日ぴーかんに晴れていて、小杉湯のこいのぼりを見上げたら空が青くてとてもまぶしかったことをくっきり覚えている。

5月の心のこりは、evening cinemaのココ吉インストアと柴田聡子のタワレコインストアに行けなかったことだ。
evening cinemaは今年の1月に下北沢THREEではじめて見て、わ、すきだなと思っていたので、ほんとうに見たいと思っていたしたのしみにしていただけに残念だった。終わったあとにココ吉へ行ったら、岡村ちゃんの『イケナイコトカイ』をカバーしていたというのでレジで奇声をあげてしまった(ごめんなさい)。矢島さん、インスタあげてくださってありがとうございます、最高でしたね、わたしもそこにいたかったです。
柴田さんのインストアは、ほんとうに貴重な機会だったと思う。神保町試聴室で定期開催している『柴田聡子の神保町ひとりぼっち』も、最近では予約がまたたく間に埋まってしまって、当日券はほぼ出ていないし、今度のツアーファイナルもきっとすぐ売りきれてしまうと思う。


先日、出張で大阪へ行った。その日も朝からうそみたいに晴れて、新幹線の車窓から見える山肌や茶畑の若葉が本当にまぶしく、田んぼの水面がきらきらとして、思わず窓におでこをくっつけて景色をながめていたら、頬が日焼けしてしまった。
出張は、さみしい。慣れないところへひとりで行くのは、うきうきよりもさみしさとわからなさがおおきい。仕事のことが気になって、まちがえて車内でパソコンを開いてしまったりする。いま読まなくてもいいメールをみつけてしまって、ちょっと胸のなかでぐったりする。パソコンをとじて、つめたいコーヒーをぐびと飲んで、また窓の外の、とおいとおい景色をみる。街もすきだし、山もすきだし、海も川もすきだ。人も車も、みんなすきだ。名古屋の駅前を走っていた、あずきバーのバスに乗りたかった。

旅のBGMはもちろん、柴田聡子『愛の休日 DO YOU NEED A REST FROM LOVE?』。このアルバムを手にした日には、家に帰るやいなやフィルムをめりめりはがして、すぐに再生した。はじめて柴田さんを目の前でみた14年末のギャラリー・セプチマでみたソニー・スミスとのツーマン、15年末の武蔵野公会堂、カネコアヤノちゃんとのツーマン、16年夏の代官山UNIT、そして毎回の神保町ひとりぼっち、そこで聴いた名曲たちがおしげもなく入っている、そのことだけで、胸がいっぱいになった。

わたしのいちばんすきな曲は『スプライト・フォー・ユー』。この曲を、新幹線にのって聴ける日がくるなんて、思ってもみなかったな。去年の7月に、柴田さんの詩集『さばーく』刊行記念で、梅ヶ丘のtenonaruという古本とレコードのお店(現在は閉店。残念)でトークショー(!)があって、少人数だったのでトークショーというより座談会みたいな雰囲気だったのがとてもよかったのですが、そのときに、お客さんが順番に自分のすきな曲を言うっていうコーナーが急きょあって、わたしは自分の番で、ライブで聴いてずっとすきだった『スプライト・フォー・ユー』を挙げた。『さばーく』に収録されていない曲を選んでしまって、いらしていた編集の須川さんには申し訳ないと思ったけれど、その時からずっとこの曲をすきでいつづけているし、これからもずっとすき、この曲をずっと聴いていられるのがしあわせだなと思っている。
この曲にかんしては柴田さんがインタビューで、『すごく個人的な話』と言っていた。

“スプライト・フォー・ユー”は、私の、どうでもいい一場面の、忘れられない景色なんです。「これを全力で伝えるにはどうしたらいいんだろう?」っていうところから、このアルバムは始まっています。

柴田さんは『個人的な話』を歌っているはずなのに、わたしたちはなぜか、知らないはずの景色、感じたことのないきもちを、思いだしているような錯覚におちいる。それはきっと、根っこの部分でなにか共鳴するものがこの曲のなかに埋めこまれているからなんじゃないかと思う。これを聴いた人のなかにある物語と、どこかが重なってひびきあう、そういう曲なんじゃないかと思った。


ささいなことで、何日かしたら忘れてしまうようなことを、ときどき、ずっと覚えていたいなということがありませんか。残念ながら忘れてしまうようなことです。すきな人の顔とか、ずっと思いだせるようにしたいけど、ほかのもっともっとどうでもいいことに追いやられて、どんどん輪郭がぼやぼやになってしまう。またその上から記憶を塗りかえて、思い出になったりならなかったり、記憶が差しかわったりして、しばらくして思いだせば、なんかすきな人が、いいかんじににっこり笑っていてやさしい、そういう記憶をつくっていくわたしの頭は、ほんとうにばかだなと思うけど、いちばん最初のきらりとしたすてきなできごとを、いつまでもとっておけるようになったらいいなあと思ったりする。
逆もしかりで、いつまでたっても、どうでもいいことを舌にこびりついているみたいに覚えているのをやめたいと思うことがある。忘れたくないけれど忘れていくこと、忘れたいけれど忘れられないこと、いいことはぜんぶ覚えて、いやなことはぜんぶ忘れて、そうやって自分の都合のいいような配分で覚えていられたら、きっと夜中にはずかしくてうめいたり、急にかなしくなって泣いたり、そういうことが減るだろうなと思うけれど、ときどき思いだしてはずかしいのも、ぽろぽろ涙がでてくるのも、なんでか、ずっと、きらいになれない。

柴田さんが『後悔』のことを「泣き笑い」と言っていた。わたしはまだ、泣き笑いにできないことをたくさんかかえているような気がした。あるできごとが、どうでもいいと思えたり、もういいや!と思って明るく笑いとばしたりできるようになるには、時間がかかるなと思った、新緑の季節。

www.barks.jp

新幹線の窓から

新幹線というのは、ふしぎなのりものだ。電車のようで、電車とはちがう、のりもの。

指定席を前もって買うよりも、なんとなく、あ、新幹線のるんだったという感じで自由席を買って、きっと座れるよねと思いながら、がらがらをひいてホームを歩く。自由席の車両はとおい。お弁当を売っているような売店は、自由席の車両の近くにはないから、とちゅうでお弁当やおかしを買って、またがらがら歩く。お弁当のビニール袋はがさこそかさばる。3両目のうしろのドアから入って、空いている窓側の席を見つけたら、ラッキー。3人掛けの通路側が空いていたら、窓側の人に、ここいいですか、と声をかけて、だめですと言われるはずもないけど、いちおう確認して座る。2人掛けの通路側が空いていたら、さらに、すいませんという顔で窓側の人にちゃっかり座る。となりの人がおいしそうなお弁当をたべているのを、じっと脇目でみる。たのしい。

席にすわって飲みものをごそごそしているうちに発車して、ほどなく車内案内のジングルがながれる。曲はTOKIOの『AMBITIOUS JAPAN!』。小学校にあった大きな鉄琴を、ペダルをふんで鳴らしたみたいな音だ。なぜか最初に、メロディーではない「ラ」の音がぽーんと投げこまれていて、なんで「ラ」はいってるのか、と毎回思うけど、なんでかはわからない。

お弁当をあけて、とにかくやたらに包装の部品が多い、こまごまと包装紙やフィルムやらのごみがいっぱいでて、広げているうちに前の座席の背中からばたんとでてくるあのテーブルがいっぱいになってしまう、というか、お弁当の箱ですでに、テーブルいっぱいになってしまって、もう飲みものをおく場所がない、わたわた、などとしつつ、やっとひとくち食べて窓のそとに目をやれば、遠くまでひらけてよくみえて、近くのビルは残像、遠くのビルはごくゆっくりと流れてゆく。車が走っている。人が歩いているのが見える。

ふだん、物理的にも、人間関係からみても、ごく狭い範囲で生活しているわたしにとって、世界地図をみて日本がこの小さい細長いのだと知っていても、自分の生活している世界がすべてで、世界の真ん中から端っこのような気がする、いつまでたっても想像力がとぼしくて、だから新幹線にのると、窓の外に日常がくりひろげられている、人が生きている、わたしの知らない人たちとわたしの生活が実は地つづきであることを思いだして、何度でもはっとする。考えてみれば、東京では1時間電車に乗っても、東京のなかにいるし、新幹線にのれば、あんなにはやいスピードで走っても、2時間半でまだ大阪だし、4時間走っても、日本列島からびょーんと飛びだしちゃったりすることはなくて、そうなると日本列島はとてつもなく大きいんじゃないか、とか思うし、じゃあ地球って、もっとほんとうに想像がつかないくらい広くて、わたしが生きているあいだに行けないところがたくさんあるのがくやしいなと思う。

電車に乗っているときは、こういうことは考えなくて、景色をみても、おなかすいたなとか、はやく着かないかなとか、そういうことを考える。新幹線にのるときはまだまだ、おでかけ気分だから、日常的なことをふとあんまり考えなくなって、仕事のこととか、ほんとうにどうでもいいことを、豆電球がふぁっと一瞬ひかるみたいに思いだしても、なんとなく景色をみたりして忘れる。でも、その見つめる先の景色にも、ある人にとっての日常があって、だからわたしたちはきっと、新幹線にのって、日常のなかを駆けぬけているのだな、と思う。白いボディにまもられて、わたしの日常とつながるかもしれない、知らない人の日常のなかを、まだなんにもわからずに、ぼんやり眺めて通りすぎてゆく。いま見えているビルの窓の向こう、マンションのドアの向こう、建ちならぶ家家の中に、きっと人がいて、ひとりひとりがそれぞれにちがう生活を送って、その生活と生活がどこかで交わったり、一生交わらなかったりするのだなと思うと、急に自分が小さい点に思えてくる。わたしと、わたしの周りの知っている人たちを囲む円が、この世に生きている人の数だけあると思うと、なんだかわたしの頭では推しはかれない、大きなことだなと思って、ぼーっとして、お弁当食べよ、と思うのだった。

ちなみに、大阪へ出張したときに、はやい電車にのれば、京都まで30分ちょっとで行けると知って驚いた。なんでか大阪から京都へは、ひょいと府をまたげるのらしいね。

髪の毛をめぐる話

わたしの髪の毛、量は多く、毛は太い、パーマやカラーはなし、大学生のときに、カラーがおもしろくって何種類かの茶髪にしていたこともあるけど、最近はしていない。もともと茶色がかっている色で、自分ではけっこう気に入っている。
子どものころ、量が多いうえにくせがあり、いつも決まったところのひとかたまりの髪の毛が波型にうねっているのが悩みだったけれど、中学生になってドライヤーを使うコツを身につけてからは、ニクロム線のように太い毛がいつもぴんぴんに伸びている、ストレートヘアになった。

基本は前髪ぱっつん、あごのラインでまっすぐにそろえたボブ。後頭部がでっぱっている頭の形ゆえに、川上未映子さんがエッセイでまったくおんなじことを書いているけれど、ポニーテールが激烈に似合わない。重力に逆らってポニーテールの毛束が頭を引きのばしているような感じになってバランスがわるい。そのかわりボブにしておくと、でっぱった部分がアンコ(七五三や成人式、和装をするときに、頭のてっぺんをこんもり見栄えよくさせるために盛り髪のなかにつめる、毛玉みたいなやつ)の役割をはたして、なんだかいいあんばいで形が保てる。中高時代はいつも全体をボブにして、前髪は伸びてきたら文房具のはさみを使って洗面台でぱっつんと切った。ときどき失敗した。aikoの『シャッター』をいつも反芻した。

切りすぎた前髪 右手で押さえて少し背を向けた
嫌われたくないから

恋をしているわけでもなかったのにこの一節だけは頭のなかで何度もなぞっている。前髪を切るのに失敗したらきっと、はずかしくてすきな人のことをまっすぐ見られないんだなと思いながら、わたしには関係のないことだなと思ってぼんやりすごした。

大学生になって、なんとなく茶髪にした。地毛が少し明るい茶色なので、市販の「ダークブラウン」で染めると、地毛よりも暗い色に染まった。少しするとだんだん色が抜けてきて、赤っぽい茶色になって、毎日コスプレのウィッグをかぶっているみたいな気持ちだった。自分の髪の毛じゃないみたいだったから。自分として限界の明るさまで色が抜けたら、また暗めの色で染めなおした。それをくりかえして、5回くらい染めたと思う。赤毛のときに撮った写真をみると、わたし若かったな、と思うけれど、いま見ても、その当時からも、なんかわたしと違うと思った。それきり、カラーはしていない。

そのころ、少しずつ髪の毛を伸ばしはじめた。入学した時にはあごのラインのボブだったけれど、そのまま切らずに伸ばして、成人式のころには胸まで伸びていた。もちろん振袖を着るときに自分の髪で結いたいというのは大義名分ではあったけれど、青文字系モデルの青柳文子ちゃんにあこがれて、青柳ちゃんの「ゆらゆら巻き」をするために伸ばしていたというのもある。
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当時の写真を見ると、なんというかほんとうにふわふわの巻き髪で、前髪がくるりんとしていて、うわわーと思う。
成人式を終えて、マッシュにする。わたしは菊池亜希子さんをほんとうにずっとすきで、アルバイトをしていた書店で「菊池亜希子フェア」を企画したくらい、ほんとうにすきなのだが、毎日彼女のムック『マッシュ』を読んでいると、襟足がすずしそうでいいなあ、前髪のラインががぴっと耳に向かってつながっていいなあと思うようになる。
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たっぷりたくわえた髪の毛をぶらさげて椅子にすわり「マッシュにしてください、えへへ」とへらへら告げたら、美容師さんに何度も、切っていいのか確かめられた。「いいですよ」と何度もこたえて、最初の毛束をじょっきり切った時に、少しくらいかなしくなってもいいのに、何にも感じなかった。このあたりから、髪の毛をどんどん短くしたいと思うようになった。

わたしとしてはマッシュのまま就活をしてもよかったのだけど、まわりの人から、「そんな個性的な髪型はやめたほうがいい」といわれた。いまでも、マッシュが個性的なのかどうかはぴんときていない。まあでも、就職できないとこまるので、なんとなく普通っぽいボブにした。いつもの、前髪ぱっつんのあごのラインのボブ。就職できたのはよかったけれど、はげしくつまらない髪型だと思った。その当時付き合っていた人が、もうこれ以上短く髪の毛を切ってくれるなと言ってきて、なんでも、これ以上のショートヘアはかわいくない、とのことであった。わたしはふふんと聞いたけれど、腹のなかでは、お前のいうことなんて聞いてやるもんか、なんで髪型まで決められないといけない、お前なんかより、この髪の毛とわたしの付き合いのほうがずっと長くってもう20年以上だ、そして、なんか、髪型がかわるだけでわたしがかわいくなくなったり、かわいいままでいられたりするのか、そんな程度なのかと思ってくやしくて、その人と別れてからほどなくして、再びマッシュにした。付き合っている間に切れなかったわたしは意気地なしだった。

マッシュにしてからはもうどうにも歯止めがきかないくらいどんどん短く切るようになってしまった。前髪をセンターパートにしたのは『After Hours』のときのシャムキャッツ夏目くんへのあこがれ。

シャムキャッツ - AFTER HOURS
それはけっこうすきで、そのあとは前髪をつくったりして、それもまあまあ普通に気に入っていて、どうしようもなく仕事がいそがしいときに1秒でも早く乾かせるように超絶短くしてしまって後悔したりした。

いまはけっこう短めの耳が出るマッシュにしている。さっきドライヤーをしながら、サイドの髪の毛が耳にかかりはじめているのに気づいて、また伸びたなあと思う。ここで、いつもなら、さて来週か再来週にまた切りにいきましょうかとなるのだが、もうさすがに、髪の毛を短くするのはやめようかと思う。最近ついに髪を切りすぎなんじゃないかと、おそまきながら気が付きはじめたから。わたしに髪を切るなと言っていた人のことをぼーっと思いだして、すぐに忘れる。もうどうでもいいのに、あのまま切らずに伸ばしていたらきっと今ごろロングヘアになっていたなと思ったりする。それをくりかえしている。いま髪の毛を伸ばしたところで、別に誰のためでもないけれど、なんというか、やっぱり髪の毛が長い女の子はかわいい、などという全き事実から目を背けられないでいると、髪の毛を伸ばすことが、自分がかわいくなるためにがんばる、自分をかわいくみせようとしているみたいで、とてつもなくあざといことをしている気持ちになってなさけない。髪の毛を伸ばしたい気持ちはあるけれど、なんだかはずかしい、そういう折り合いがつけられずに、少しずつ伸びてくる髪の毛を毎日さわっている。

拝啓 ココナッツディスク

twitterをフォローしてくださっている方にライブ会場などでお会いすると、「ココナッツディスク、おすきなんですね」と言っていただくことが多い。わたしはそのたびに、うれしはずかし、「あ、あ、そうですね、ええ、、」などと、にたにた笑うことしかできず、初対面のみなさんにくちびるゆるゆるの気味わるいにやけ顔を披露しているのですが、お気づきのとおり、わたしはココナッツディスクがすきです。最近ではうすうす、きっとココナッツディスクのtwitterアカウントをみている方の中には「このTLによく流れてくる磨硝子ってどこの馬の骨、、」と思っている方もいらっしゃるかもしれないと思いはじめて、いやひとりもいないかもしれないけれどとにかく、自己紹介のきもちもこめて、普段とてもお世話になっているココナッツディスクのみなさんに、ココナッツディスクのことをどんなにすきか、ココナッツディスクがどんなにすてきかというのを伝えたくて、片思いのラブレターを書いて、放課後の机の中に投げいれてみようと思います。見つけたら、ひとりで、こっそり読んでください。

まず、ココナッツに最初に行ったのは3年前くらいだと思います。なんで行ったのかは覚えていないのですが、たぶん柴田聡子『いじわる全集』(2014年発売)を買ったと思います。柴田さんの曲をそのころ聴きはじめて、ニューアルバムの取扱店舗に書いてあったのがココナッツディスク吉祥寺店。
友達の影響で、柴田さんをはじめ、ミツメとかシャムキャッツの音楽に親しみはじめていたので、ココナッツディスクのことは聞いたことがあったと思います。ココナッツってなんだ、どこからきたんだ、という妙なひっかかりもあって、友達に「どんなお店なの?」と聞いてみれば「トロピカルレコ屋だよ」と言われたので混乱した。

レコ屋、、、レコード屋さん?
CD屋さんなら知ってる、黄色に赤のお店とか、黒にピンクのお店とかよく行くし。でもレコード屋さんには行ったことないな。
そもそも、レコード聴いたことない。うちにプレイヤーもない。レコード屋さんに行って、レコード買わずに帰ってもいいのかな?
などと逡巡してみたのですが、どこへでもどんと行ってみるという無鉄砲な性格が、(いま思えば)さいわいして、ココ吉の扉をギリリと開けてみたのでした。たのもー!

そこからはいつ行ったのか覚えていないけれど、ココ吉にはぽつぽつと何度かお邪魔したように思います。

そしてそして2016年の秋頃に、いろいろなことがかさなって、ついにターンテーブルをえいやと購入しました。これで、念願のエンジョイレコードライフを始めることに相成ります。
1枚目のレコードは、神保町試聴室で買った、柴田聡子『柴田聡子』。さて2枚目をどこで買おうか。
そういえば、ココナッツディスクはレコード屋さんだったな。おや、ユーミンの『パールピアス』を売ってるらしいじゃないか。ユーミン、すきだな。たのもー!(2回目)

そういうわけでココナッツを知ったきっかけはふとしたことだったのですが、通いはじめて、どんどんココナッツっていいな、さいこう、と思うようになって、仕事の帰りにココ池に寄ったり、週末にココ吉に行ったりして、いまに至ります。

そのころtwitterをはじめたこともあって、ココナッツの入荷情報がすぐに手に入るようになったことも大きく、そして140文字のなかに愛をぎゅうぎゅうにつめこんだ矢島さんの商品紹介をつぶさにみて追いかけていました。いまも、毎日かかさずみています。
大学時代に書店でアルバイトをしていたこともあり、「商品をおすすめする」という営みのむずかしさは曲がりなりにも感じていました。ポップを書いていたこともあるけれど、うまく書けたと思ってもぜんぜん売れなくて、お客さんに見つけてもらえなくてもどかしいなと思ったり、それがはね返って自分の情熱が不発だったのか?と疑ってみたり文章力がないのか?と限界のようなものを感じたり、とにかく人に伝える、それも「これは自分がよいと思っていて、あなたもきっとすきだと思うから、これのこと、知らないかもしれないし、興味ないかもしれないけど、すっごくいいから、手にとってみて、そしてできたら買って、というか絶対買って」と伝えて説得するのは、究極的にむずかしい。
ココナッツに行った時に、面でずらーと出ているもの以外も、すべてポップがついていて、しかも手書きで、ほんとうに驚いたし、それを読んでどんどん欲しくなって、もっともっと驚いた。これは、ほんとうにすきじゃないと書けない、すごい、熱量にひれ伏してしまった。こんなに情熱をもって、すきなものを、よいものを、すきだよ、これはよいものだよ、(だから買ってね)と伝えてくれている、びしばし伝わってくる、んええさいこう、このお店の人を尊敬する。わたしはまだレコードの知識があまりなくて、何を買ったらいいんだろかと思うこともあるけれど、知らないミュージシャンのレコードも、知らないタイトルも、ココナッツの手書きポップをみて、ほしくなって結構買っていて、たぶんこれは、自分ではみつけられなかったなというアルバムにいくつも出会ったりしています。わたしが1番すきなポップはこれです。
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これはほんとうに愛、こんなに愛されているアルバムがうらやましい、澤部さんがうらやましい。

ポップ以外にもすてきなところがたくさんあって、たとえばインストアライブを無料で開いてくださるところがすきです。だって、無料で、たのしくて、今日のライブよかったなと思ったらすぐにレコードやCD買えて、サイン会とかもあって、わ、澤部さんが近い、ギターの音がすぐそこで鳴っている、歌ってほしい曲リクエストとかできる、感動、みたいなことも思ってたのしくて、さいこうじゃないですか。毎回いそいそと行っているのですが、いつもハアよかったなあと吉祥寺の駅までふわふわ夢見ごこちで歩くばかりです。

そしてココナッツをいいなと思う、ほんとうの最大の理由は、とてつもなく安心してレコードを買えるからです。レコードを選ぶときにも、お店にいるときでも、とにかくとても居心地がよくて安心します。
わたしはほんとうに最近レコードを買いはじめたので、どれを買ったらいいのかわからないことがしょっちゅうあって、この状態でこの値段ならちょっと高い、とか、あまりむずかしいことはよくわからないのですが、なんというかそういうところも含めてココナッツはやさしくて、そういう、なんにもわからないわたしをあたたかく受けいれてくれて、レジに持っていくと「これいいよね」って言ってくれたり、いろいろと親切に教えてくれたりするところがとてもわたしに合っているなと思います。
あとこれは最近気づいて、すんごください例えになってしまって恐縮なのですが、ココナッツディスクでレコードを買うということは、「生産者の顔が見える野菜」を買うのに似ているな、と思います。生産者の顔写真が、ほうれん草の袋に貼ってある、あれです。あれには、とにかく誰がどんなふうに作った野菜なのかわからないよりも、こんな人が作ってるのかとわかって、なんかいい人そうだし安心な気がする、と思わせる効果があって、だから、まあほうれん草はどこにでも売っていて、ほかにもっと安いのもあるだろうけど、なんだか安心だな、という心理的な役割をほんのり果たしていると思うのですが、ココナッツでレコードを買うというのもなんとなくそれに似ていて、もちろんほかの中古レコード屋さんに行けば、おんなじのあるかもしれないけれど、なんか矢島さんが、ここにででーんと出しているのとか、中川さんがインスタで推しているのとかをみて、あの、好きなもののことを全力で愛している、矢島さんとか中川さんがよいと言っているのだからきっとよい、だからココナッツで買うのがよいのではないか、という気になる。わたしにはまだレコードを選ぶ審美眼がないけれど、誰が、こういうわけで、これはよい商品だと推しているのかちゃんとわかって、だから、新譜をぱっと取って買っても、ジャケを気分で選んで買っても、どれを買ってもきっと間違いなくって、安心というのは、心づよいです。なんだか全然うまいことを言えなくて申し訳ないのですが、そういうことなので、どうにか、少しだけでも伝わるでしょうか。

ほんとうに一方的なきもちでここまで書いてきて、次にお店に行くのがはずかしいですが、今日ココ池行っておいてよかったです。
いつも、ほんとうにお世話になっています。ありがとうございます。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。だいすきです。

(追伸)ココナッツポイントカード、今年7枚目に突入しました。うれしいです。