磨硝子日記

すりがらすのブログ

「東郷清丸沼」にはまったわたしがつたえたい、東郷清丸のこと

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東郷清丸。
一度見たらわすれない、勇ましく、勝負運のつよそうな名前。


わたしが最初に彼をしったのは、おそらくココナッツディスクのインストアのおしらせだとおもう。

ここは失礼と恥を承知でいいます。東郷清丸って誰。


まずジャケのビジュアル。真っ赤な服をきて壁にもたれ、不敵な笑みをうかべているようにもみえる、どこか遠い一点をみつめる表情。キングオブコメディ今野に似ている。そこへきてタイトルは『2兆円』。これはあれだ。確実にやばい奴だ。

後日ココ池にいくと中川さんが「こんどインストアやるからきてね!ほんとに最高だから!」とニコニコしながらいってくる。いや、ココナッツディスクさんの推しにはずれがないってことは知ってるよ!いままでおすすめされて買ったレコードはどれもすきだったよ!でも大丈夫か、大丈夫なのかココ池!ぜったいやばい奴だよ!だってこのジャケからしてやばさがにじみでてるじゃん!デビューアルバムのタイトルがにちょ


そうしてインストア当日。わたしはまんまとココ池にいた。
TLで毎日のように目にしていたジャケを手にとる。裏ジャケにチョコレートケーキ。これがはたしてアルバムの中身と関係があるのかないのかもわからなかったけれど、まあせっかくきたしインストアの記念に、とアルバムを購入。ライブがはじまるのをまつ。

平日にもかかわらず店内はすぐに埋まり、ついに東郷清丸が登場した。おや、小ぶりなアコギをもち、くたっとした赤いスウェットに、タイトな黒いパンツ、コロンとしたスニーカーをはいた、おしゃれな青年だ。ほんとうにあのやばいジャケの人なのか?

わたしの混乱をよそに、東郷清丸はカウンターに腰かけて演奏をはじめた。たしか1曲目は『ロードムービー』だったとおもう。

洗練されていて、それでいて体を揺らしたくなるような心地よいリズム感。やわらかく、のびやかな歌声。アコギの弾き語りでありながら、つぎつぎと綾なされる多彩な音色。


・・・すごくいい・・・気がする・・・。


目の前で繰り広げられている光景と、わたしがさんざんに描いてきた「やばい東郷清丸」のイメージがかみあわない。それどころか、そのイメージがどんどん崩れおちていく。ジャケから受けていた大胆不敵な印象などみじんもない。大きな音で圧倒することもなければ、難解なコード進行で惑わせるようなこともない。どちらかといえば、やさしそうで瞳のきらきらした、少年のような好青年が、軽やかに、気もちのよいところをピンポイントで突いてくる巧みな演奏をみせている。ほかの誰でもない、そこにどっしり構えるは「東郷清丸」であった。いままでにみたことがないかっこよさだ。

中盤で披露された『SuperRelax』、この曲は8分の7拍子と4拍子で構成されている。彼は演奏前、「この曲を聴きながら、体を8分音符のリズムで上下に揺らすと、最初の1小節では下→上→下→上→下→上→下、次の1小節で上→下→上→下→上→下→上、と体の揺れる向きがいれかわって、だんだん気もちよくなってくるんですよ。ぜひやってみてください。」といった。

このリズムのとり方は、わたしにとってかなり鮮烈だった。そうか、リズムにのろうとしなくていいんだ。変拍子の曲を聴くと、ときどき、いま自分が何拍目にいるのかわからなくなって、リズムにのれなかったり、ついていけなくなってしまうことがあったけれど、ただリズムにあわせて体を揺らすというのもありなんだ。この曲でいえば、8分の7拍子をカウントするとき、8分音符のリズムを1・2・3・4/5・6・7というように、前半の4つと後半の3つにわけてカウントするだとか、そういうむずかしいこともかんがえなくていいということだ。その発想はなかった。とても自由でいいとおもった。

いわれたとおりに曲を聴いてみる。体を揺らすのが苦手なのでこくこくうなずきながら聴いた。頭を揺すりながら、とちゅうでいま自分が何拍目にいるのか、案の定わからなくなったけれど、それでもいいのだとおもえた。あじわったことのない浮遊感があった。

それから終盤にさしかかり演奏されたのは『サンキスト』。この曲はもともと、東郷清丸がボーカルをつとめる『テンテイグループ』というバンドで演奏している曲だそうだ。
「やたら薬の名前詳しいね お嬢さん」という軽妙な歌詞ではじまるこの曲には、それまで斜にかまえていたわたしをあざやかにうちのめす痛快さがあった。

ライブが終わって、なんというか、一杯食わされたなというきもちで、家でアルバム聴こうとかおもいながらそそくさと帰ろうとしたら、清丸さん(呼び方かわってる)がフライヤーを持ってきて渡してくれた。ライブがすごくよかったということをつたえたいきもちと、やっぱりまだイメージしていた様子とのギャップで混乱しているきもちがないまぜになって、なぜかとっさに「スウェットかわいいですね!」といってしまった。ああどうして素直に、ライブがよかったといえないんだ。自分の情けなさにがっかりするわたしに、清丸さんは、さきほどの演奏中の堂々たる姿から、ぽこぽことならんだ歯をみせて笑うやさしそうな青年にもどって「わ~ありがとうございます!握手しましょう!」と手をさしだしてくれた。薄くておおきな手のひらからのびる、ほっそりとした長い指が目に焼きついている。


しかし、これですぐに清丸さんの曲にはまったかというと、そうはならなかった。
曲はどれもとてもすきだ。キャラクターもとてもすきだ。だけど、やっぱり彼は「キワモノ」なんじゃないかというきもちがきえなかった。いや、ライブをみたかぎりでは、そんなふうにはみえなかった。それでも、なにかが腑におちない。
たとえば、あのチョコレートケーキ。インストアのあと、買ってきたアルバムを開けて再生して、『SuperRelax』はバンドバージョンだとエレキの響き方がさらに浮遊感があっていいな~などとおもいながら、ジャケをながめていると、チョコレートケーキの下に・・・毛・・・がある・・・こ・・・これは・・・・・!!!!!
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けっこう一瞬にして、インストアのときの心を揺り動かされるような感動が、アルバムのジャケに胸毛を接写したビジュアルを採用するなんてやっぱり、という動揺にかわってしまった。
わかっていたことは、最初のイメージが「なんだかやばそう」、演奏は「予想以上にかっこいい」、そして話してみると「やさしそうな好青年」という、相反する一面をあわせもつ、みたことのないタイプのミュージシャンであること。だから、わたしのなかの物差しで、すきかどうかをうまく測れなかったのだとおもう。1周聴きおわったCDをケースにしまい、またいつか聴くねと、ラックのなかにおさめた。


それからしばらく経って、TLでふたたび「東郷清丸」の文字をみかけるようになった。おどろくべきことに、彼の公式アカウントは、「0フォロー」であるにもかかわらず、「東郷清丸」をふくむツイートをのがさずRTしている。TLをみているだけで東郷清丸情報に否応なしにふれるうちに、しまっていたCDを聴いてみようかという気もちになった。

やっぱり曲はすきだ。聴けば聴くほどに、すきなところが増えていく。たとえば『赤坂プリンスホテル』の、「どれだけ待っても」と「朝はやってこないし」の空隙に、緊張感のあるリズム感で奏でられるギターのフレーズ。インディー界の“曲者” あだち麗三郎が奏でるサックスの音色が妖しげに響き、変拍子を駆使したうねるようなリズムでぐいぐいと引きこむ求心力をたたえた『劇薬』。体の力が自然と抜けるようなとろけるメロディで、恍惚の境地へといざなう『美しいできごと』。それから、Youtubeにアップされている『サンキスト』の弾き語り。皮肉と退廃の渦のなかへ「ファッキンシット」と唾を吐きすてて、開けたサビで「ああ 明日になれば 今日が終わる」と歌う、「東郷清丸」前夜のきらめきがまぶしい。

それと同時に、彼の「自分自身のみせ方」についても目をみはるものがあると気づいた。
いや、芸術活動において、広告宣伝活動や販売戦略、とりわけその手法についてとやかく評するのが、ほんとうに、ほんとうに野暮なことだというのはわかっているつもりなのだ。
だけれども、これだけはいいたい。東郷清丸には、確固たる存在感がある。どんな場面でも徹底して「東郷清丸」であることを貫いている。ここまでの徹底ぶりは、なかなかできないことなのではないだろうか。
たとえば、プロダクトデザイン。アルバムのジャケット、フライヤー。色づかいは赤、白、黒、青で、文字は少しつぶれたゴシックのような書体であるというルールがブレない。
それから、ライブのときの衣装。赤いスウェット、立ちあげた前髪、黒縁メガネといういでたちも毎回かわらない。たとえば対バンのとき、それまではちがう服を着ていても、出番がくるとお決まりの「清丸ルック」で登場する。夏はどうなるのかちょっとたのしみだが、いまのところこれ以外の衣装ででてきたところをみたことがない。
その流れでいくと、わたしが「やばい」とかんじる源泉であった、あの不敵な表情のジャケも、チョコレートケーキも、高田唯さん(Allright 代表取締役)によるアートディレクションのもとでつくられた、「東郷清丸」をかたちづくるための要素のひとつだとすれば合点がいく。

そう、この時点でわたしはこのようにかんがえていた。東郷清丸のたぐいまれなる、ともすれば「やばい」とかんじさせるまでの存在感は、こうした綿密で計画的なディレクションの賜物なのではないか、と。

こうしてわたしのなかでは、東郷清丸にたいして、演奏は「最高」、話してみると「やさしそうな好青年」で、さらに「みせ方も巧み」なミュージシャンというイメージがあらたにかたちづくられていった。


2月4日(日)。高円寺のGallery Cafe 3で、東郷清丸の弾き語りライブがあるとしる。お弁当と「星読み」のお話があるとのこと、なんだかおもしろそうなのですぐに予約をした。お客さんが20人弱ぐらい、カフェのカウンターが7席ぐらいと、数席のテーブルで、特製のお弁当を食べながらライブを鑑賞した。


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この日はAllright 取締役の北條舞さんから「星読み」のお話があった。
星読みとは、簡単にいうと、
①自分の生まれた時刻に、生まれた場所からみて、太陽や月といった10の天体が何座の方向にあったか、ということを、出生図というものから読み解く
②該当する天体と星座のもつメッセージを読む
というもの。くわしくは北條舞さんがブログに書かれています→星読み | Allright

こう聞くと急にオカルティックな香りが漂うけれど、そういうものではない。あくまで、自分にはこれこれという性質があるらしい、ということに気づくことが目的。たとえば、好奇心が旺盛、社交的、傷つきやすい、など。それも、すでに気づいていることだけではなくて、意識していなかった性格にも気づいて、自分のことをよりいろいろな角度からとらえることによって、自分の姿を立体的に浮かびあがらせようとする作業なのである。

北條さんによれば、Allrightでは「自分をしること」、具体的には、得意なこと/それほど得意ではないことを理解するために、こういう星読みのかんがえ方もとりいれているという。それと、まわりの人にもそれぞれちがう星座がわりあてられているので、自分とまわりの人のちがいに気づいて、それぞれの強みと弱みをわかりあうこと、おたがいのよいところをのばしあうことにも、星読みは役立てられるそうだ。清丸さんも「統計学の一種のようなものだとおもっている」とのことで、星読みででてきた結果が、自分にあてはまるとかんじることもあるといっていた。
それからもうひとつ、Allrightでは「徹底的に自分をだす」ことが重要なのだそうだ。自分をしったら、その本音をまわりの人にさらけだすこと、そして「共有しあうこと」によって、おたがいにわかりあう努力をしているということだった。

星読みというかんがえ方は、会社のような組織でとりいれるにはまだまだなじみのないものかもしれないとおもう。おそらく前例もないし、やっぱり懐疑的な人もいるだろう。わたしも、星読みのかんがえ方はおもしろいし、現代にもとめられるある種の知恵のようなものだとおもうけれど、ある日上司が星読みとかいいだしたら、正直びっくりしてしまうとおもう。
だけれど、「自分をしる」「自分の本音をつたえる」「まわりの人と共有する」というのは、どんな人間関係のなかにあっても必要なことだ。とかく仕事の場面では、異なる立場の人がひとつのゴールにむかうためには不可欠だとおもう。Allrightでもそういう意味で、星読みのかんがえ方をとりいれているのだろう。


この星読みの話を聴いて、わたしはこんなふうに推測した。そうか、東郷清丸の存在感は、「こう見せたい」という思惑のもとで打算的につくられたものなんかじゃない。むしろ、極限まで自分をさらけだすことによって、ありありとした「東郷清丸」の輪郭を得られた結果なのだ。いろいろな側面を、すべて、自分の一面であるとみとめることによってはっきりと立ちあがってきた、多層的で奥行きのある「東郷清丸」をとらえたからこそ、かもしだせるものなのだ。
そして、まわりの人たちも彼の本音に応え、彼らもまた本音をぶつけることによって、たがいにわかりあい、東郷清丸が「東郷清丸」らしく活動ができるようにささえる。
だからこそ東郷清丸は、観る者の目に、ほかの誰にも似ていない、揺るがない存在感のある人物として映るのだ。

さらにいえば、そうした「自分らしさ」を貫く態度は、彼の働き方にもあらわれている。東郷清丸は、ライブのないときにはAllright Printingにて活版印刷の仕事をしている。もともと得意な印刷やデザインのスキルを活かしながら、ミュージシャンとしても活動しているのだ。
2018年のわたしたちからすれば、いかにも「自分らしい生き方」をしている、ともすればうらやましくもおもえるやり方だとおもう。そして、わたしたちがそうかんじてしまうのはなぜかといえば、「自分らしく生きること」、つまりは自らの潜在能力を活かしながら生きていくことが、至上命題でありながら、結局はさまざまなしがらみにとらわれてしまうために、実際には叶えるのがむずかしい、遠い理想になりがちだからだ。
しかしながら、東郷清丸はちがう。信頼できる仲間たちと、しがらみを疑って、ひとつずつ解いていくのだ。「自分らしく生きること」そして「まわりの人も、その人らしく生きられるようにすること」なんて、至極あたりまえのことでしょ?という顔をして、ひょうひょうと、しかし確実に歩みをすすめていく。
8分の7拍子の数え方なんて、自分の気もちいい方法でいい。自分らしい生き方は、真っ暗な夜をハイビームで切り裂いた先にあることを、彼はしっている。間違いなんてきっと、ひとつもないのだ。

こうしたことからかんがえれば、東郷清丸は「演奏は最高で、好青年で、みせ方も巧みなミュージシャン」とはすこしちがうといえるだろう。どちらかといえば、「演奏は最高で、好青年で、ありのままの自分をしっているし、それをおもうままに表現できるミュージシャン」とでもいえるのではないだろうか。


しかし、だとすればだ。
彼がありのままの自分を表現しているとするならば、はじめて彼をしったときにかんじた、あの「やばさ」。
彼はあの「やばさ」を、地でいっているということになるのだ。


・・・それはそれで・・・やばい・・・!!!!!


それからというもの、わたしは憑りつかれたように『2兆円』を聴きまくった。とにかく東郷清丸の正体が気になってしかたなかったのだ。アルバムはDISC 1のみならず、DISC 2までも通しで何度も聴いた。DISC 2のうしろのほうにはいっている短くて内省的な曲は、『サンキスト』にも似て、東郷清丸が「東郷清丸」たりえるまえの、あるいは、前髪の立ちあがっていないときの清丸さんといった風情で、しずかで寒い夜に聴くのがとてもすきだった。


2月18日(日)。いてもたってもいられなくなって、湘南新宿ライン 宇都宮行に乗りこんだ。着いたところは埼玉県久喜市、カフェクウワ。「いなかまちにおんがくがなりひびく その38」を観るためだ。

そのときの様子は、わたしの下記のツイートをご確認ねがいたい。

そう。東郷清丸の正体をつきとめようとおいかけているうちに、わたしはついに「東郷清丸沼」に引きずりこまれてしまったのだ。さらなる真実をしろうとしたために、主の怒りにふれてしまったのだろう。結局、彼の正体はわからないままに、底なし沼に肩までつかってしまってもう抜けだせない。降参である。



わたしとおなじように、最近、東郷清丸をしったみなさん。
彼のことを「なんかやばいかも」とおもった瞬間から、足元には十分にお気をつけあれ。
気をゆるした隙に、あっけなく片足ずつ沼へとすいこまれてしまうから。

2月のおわりのこと

岡村ちゃんのツアーのチケットが当選していてうれしい。リリースがないときでも精力的にライブをやりつづけてくれるのは、ライブをみるのがすきなファンとしてはありがたい。とりわけ岡村ちゃんは半期に1度のライブをずっと続けていてほんとうにすごい。今度こそ前のほうでみたい、岡村ちゃんがターンしながらとばす汗を浴びたい。音楽にあわせて「たのしそうにおどる」のが苦手なわたしは、普段ライブにいくとせいぜいフンフンうなずくぐらいでだいたい直立不動であるが、岡村ちゃんのライブだけはべつだ。ステージの上で一心不乱に歌い、ぱりぱりのスーツで華麗なターンをキメ、ベイべいくよと囁く岡村ちゃんをみれば、全身の細胞がぶくぶくと音をたてて騒ぎだし「I give you my love」と叫ぶのである。先輩ベイベのみなさんにまじって右手を挙げながら、『Super Girl』の「♪マンションの手前で Say Good Bye」で岡村ちゃんに手をふるのも、『だいすき』の「♪僕は拍手を送りたい」で2回手拍子をいれることもおぼえた。岡村ちゃんのためだけに瞬発力および右肩の筋力と手首の柔軟性をきたえておいてもいい、それくらいに、岡村ちゃんのライブはわたしが唯一自分から「たのしそうにおどる」ことができる場所なので、5月までは元気にすごしたい。岡村ちゃんが著名人のインスタにちょこちょこ登場するのをおっかけるためだけにインスタはじめたい。ココ吉の短冊CDセールで『ラブ・タンバリン』ぜったいにほしい。財宝掲げて買いにいく。


最近ココ吉で買った新譜はSaToA、カネコアヤノ、evening cinema。どれもとてもすきだった。SaToA、なんでもっとはやく聴いていなかったのかなというくらい、すきだった。ココ吉へいったときにお店でかかっているのを聴いて、なんだかやっぱりSaToAとココ吉があっているとおもった。おたがいは仲のいい友達だとおもっているけれど、まわりからみたらつきあっちゃえばいいのに!とおもうような男女みたいに相思相愛なかんじがした。というか実際もそうだからそう聴こえるのか?とにかくだからこそ、SaToAのことをすきな人はココ吉のこともすきなわけだし逆もしかりなんだろう。BGMがいいレコード屋さんはきもちがいいです。7インチをいくつか買ってその日は帰りました。


カネコアヤノちゃんのカセット『序章』、こちらもよかった。ケースを裏返したら、カセットのすきまからジャケの裏側にデザインされたアヤノちゃんの顔がのぞいて、おもわずうわっ!と声がでた。カネコアヤノちゃんはいつもパッケージをあける瞬間からときめくプロダクトづくりに心血注いでいるのがびしびし伝わってきてほんとうにやられてしまう。レコード屋さんへいき、手にとって触ってたしかめて、家についてビニールの封をぺりぺりとあけて、ジャケットを表裏ながめてから、歌詞カードを取りだして、1ページずつていねいにめくりながら再生する、彼女はそういういとおしい営みへのまなざしを結晶にして手のひらにおさまる大きさにぎゅっとつめこんでいて、きっと彼女も同じ時代を生きながら同じように音楽を聴いて生活しているのだろうとおもわされるし、彼女をささえる人たちもきっとそうなんだろうとおもう。ちなみに音源とは違ったすさまじい魅力のあるライブで最近すきなのは新曲『アーケード』、いつものようにギターをびっちり身体にひきよせてじゃんとかきならし「君って歯並び悪いね 今気づいたよ」と歌ってのける彼女に完全にノックアウトされた。まるでiPhoneで連写したときに予期せず撮れたいちばんいい1枚のように、うつくしい日常の偶然も(必然も)のがさず切りとるアヤノちゃん。ほんとうに目が離せない。


それから個人的に声を大にしてだいすきだと宣言しているevening cinemaですがアルバムほんとうにすばらしかった。インタビューやレビューをみているとひたすらに「○○っぽい」という言葉がならんでいるけれどもそれこそが「原田夏樹っぽい」なんでは、とおもうこのごろです。つまりは、彼のユーモアと、先人たちへのリスペクトをもってして「あ~これは○○っぽいな」とまんまとおもわせながら、原田夏樹のロマンティックを織りこんだ、だれでもない2018年のバンド「evening cinema」へと昇華させているというのがかっこいい。シックなスーツを着た原田さん、ロゴがど真ん中にデザインされたジャケをみて、わたしはにやりとしたわけですが、それさえも原田さんからしてみればしてやったりだというわけで、とても痛快なアルバムである。こちらもココ吉でかかっているのを聴いたけど、なんか胸がどきどき高鳴ってレコードを繰る手がふるえた。ライブへいったらきっと、たのしそうにおどれるかもしれない、なんだかそういう気がしました。

本についてかんがえていること

このところとみに本を読めるようになった。

去年あたりからささいなことに気が散って、集中して活字を追うのがむずかしくなり、ページに目をおとせば視線が文字の上をつるつるとすべってしまって、内容が頭にはいってこないことがままあった。
趣味は、と訊かれれば「読書です」と答えていたのにこの体たらく、とかなしくなっていたけれど、年明けからはゆったりとした心もちをとりもどし、いまでは視線は活字をつぶさにとらえられるまでになっている。


大学時代に書店でアルバイトをしていた。

大学にはいったら本屋かCD屋(当時は「レコード屋」という単語を知らなかった)でアルバイトしようと決めていて、近所の書店とCDショップに応募を検討していたのだけど、CDショップには金髪のいかつい店員さんがいるという理由で、書店のほうに応募して、そのまま4年間身をやつした。

いまおもえば、CDショップのほうにいっていたらほんとうに人生がちがっただろうなあとおもうし、きっといま聴いていないような音楽に出会っていただろうとおもうのだけど、書店では、わたしにいま聴いているような音楽を教えてくれた友達に出会ったし、結果的にはよかったのかなとおもう。ちなみにのちにわかったことだけど金髪の店員さんは心やさしくてとてもいい人だった。



わたしが書店で働きはじめた理由は至極単純で、本がすきだったからである。

ただ「本がすき」というのにもいろいろあって、たとえば、本を「読む」のがすきな人もいるし、実体としての「本そのもの」がすきという人もいるとおもうけれど、わたしは後者のほうで、まずもって「本そのもの」がすきなのであった。

大きさ、重さ、厚み、表紙のデザイン、文字のかたち、さまざまな紙の手ざわりや透け具合、印刷の色や凹凸、栞紐の色など、ある本のために作り手たちの叡智とおもいの丈が結集したさまを手にとってあじわえるというのはとても趣があることだとおもっている。


以前、スタイリストであり、おすすめ本を紹介する連載をもつほどの本好きであることでも有名な伊賀大介氏のトークショーに行ったとき、伊賀さんが「栞紐の色」について「本を読んでいるときに栞紐が何色か予想していて、読みすすめて栞紐がでてきたときに、その色が予想どおりだとテンションあがる。この本は黄色だな~っておもいながら読んでいくと、ほらやっぱり黄色だった~みたいな!」というようなことを喜々として話していて、その並々ならぬ愛のこもった発言に心をわしづかみにされたのであったが、記憶をたどってみても、小学生のとき、クラスの物静かな男の子が読んでいた『ハリー・ポッター』のオレンジ色の栞紐が妙に目に焼きついているし(1冊読むのに時間がかかるのでだんだん読んでいるうちに栞紐がほつれてきて、椅子のうしろにつけている防災ずきんのカバーのなかからとりだすたびに、みつあみのほどきかけみたいになっていたことも覚えているし)、いまでも本を買ったらまずカバーをはずして表紙、裏表紙、背表紙のデザインをみたり、帯のコピーをくまなく読んだりするのが常であって、モノとしての本がすきなのは、ずっとかわっていない。



もちろん、本を「読む」のもすきだ。とはいっても、いままで「この人は文字どおりの本の虫だなあ」とおもう人にたくさん出会ってきたから、その人たちにくらべれば、わたしは本を「読む」ことについてはかなわないとおもっている。

大学生のときにお付き合いしていた人は、外出するときにいつでも文庫を携帯していて(ときどきハードカバーの文芸書のときもあった、おもくなかったのか)、たとえば駅のホームで電車を待ちながら話しているときに横をむいたら読んでいる、料理を注文してメニューを閉じるやいなや手元の文庫を開くというようなあんばいであった。
彼の部屋は壁一面が本棚で、文芸書の新刊から名作コミックまでが色とりどりの背表紙をこちらへむけてずらりとならび、たいへん壮観であった。整然とならんだ本のなかから、ときどき、読みたい本を抜きとって読んだ。時間とお金さえあれば本を買いにいって読み、本棚におさめるという生活をしていた彼を、わたしはとてもすきだった。

自分以外の人がどういうふうに本を読んでいるのかをしると、なるほどそうやって本を選んでいるのかと感心することもあったし、どこからみつけてきたんだその本は、という本でも、その人の生活のなかでは出会うべくして出会っている本だったりするからおもしろい。

ツイッターやインスタでフォローしているアカウントひとつで、身体のまわりをかすめていく情報はまるでちがうくらいなのだから、住んでいる場所も、起きる時間も寝る時間も、食べるものの好みも、すきなテレビもラジオもちがうなら、本の好みも、本の存在感もぜんぜんちがうというのは自然なことだ。

彼に出会ってから、わたしは本を「読む」ことについてはそれほど得意ではないとおもうようになった。けれども、わたしにとって本を読むことは必要なことだ。
「本は嗜好品だから衣食住に関係ない」という人もいるけれど、生活の余白をすきなものでできるだけうめておけば、時には毛布にくるまっているようにあたたかな心地にもなれるし、少しぐらいの空腹はしのげる。
日常生活なんて、衣食住にかかわるような「なくてはならないこと」よりも、「どうでもいいこと」を「どうにかしてゆたかなきもちですごすこと」が大切だ。だから本を読んでいる。



最近は、新刊書店でも、古書店でも、ほとんどなんにもしらない状態で、タイトルをみておもしろそうだとおもったものを買っている。すこしでも興味があって買ったものであれば、あまり好みではなくても、なにかしら、しることはある(「これは好みではない」ということだってわかる)。
ちなみに早川義夫は自らのことを「本を知らない」といっているけれど、素人のわたしからすればまったくそんなはずはないわけで、しかしながら、ある分野にくわしくなればなるほど、まだまだしらないことがおおいなあと気づける人でありたいし、しっていればしっているほどに、なんにもしらないんだなあと自分をいましめられる人でありたいとおもっている。本の世界は大海原、わたしはまだ波打ち際で貝殻をひろいあつめながら、まだ見ぬ地平線のむこうへ、闇につつまれた深海へ、おもいを馳せているにすぎないのだから。



そんなふうに途方もなくおおらかなかんがえへ漂着してしまったためか、なにを読んでもおもしろいし、どんどん読みすすめられる。最近買った&読んだ本、それぞれは脈絡がないようにみえるけれど、おもいがけなくどこかでつながったりするのだ、きっと。なるべく心をひらいて生きていきたいです。
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1月のおわりのこと

3年ほど使ってきたiPhone 6のバッテリーがついに寿命をむかえて、充電ケーブルからはずすとほどなく真っ黒画面、なんならつながれたままでブラックアウト、ということがつづいたので、ついにiPhoneを買い換えることにした。

iPhoneて買い換えるとなれば、どういうわけか(どういうわけでもないが)いまより数字がおおきいものを買おうかなあそのほうがいいんじゃないのなにかと、みたいな気もちにさせられるけれど、数字がおおきくなるほどおニューのマーベラスな機能が増えてるという原則なのらしいから、iPhoneの機能なんて半分も使えてないんじゃないかとおもうくらいのわたしからしたら、もうこれ以上機能の向上なんてノーセンキュー!みたいな気もちでいたのだが、買ってきたiPhone Xはすいすい動いてかっこいいじゃないか。ちょっとおもくて手首がやられてしまってるけど、ボタンのないおおきい液晶に指で触れるだけでオーケー、クールである。Face IDという、顔認証でロックが解除できる機能なんてのもついていて、なんて近未来的。画面をぬっと覗きこむだけで、メイクしていても、すっぴんでも、多少顔のむきがまがっていても認識してくれて、南京錠が開くマークが表示されるとともに、ハイまたきたのかこんにちはといわんばかりにロックが解除されるもんだから、カメラのむこうにだれかいるんじゃないかってくらいの、なんというか不気味の谷へとつづく稜線に立っている心もちになることもあるけれど、アイドンケア。寝起きのぶちゃむくれた顔を認識できないあたりがまだまだあまちゃんで、かわいささえかんじます。ちなみにFace IDの悪用例として、寝てるときにだれかがiPhone Xをわたしの顔のうえにかざせば簡単にロック解除できるんでは、とかおもったけど、まだ試してはないです。


最近ありがたいことに、面とむかって「すりがらす」と呼んでいただくことがあり、そのたび、はずかしい&おどろきで顔がへたくそな福笑いみたいになってしまう。

「すりがらす」なんて、本名ぜんぜんかすってもいないし、へんな名前をつけたもんだなーとおもうし、いちおう理由あって名乗ってはいるけれど、初対面の方に自己紹介するときに「はじめましてすりがらすです」ってなんのこっちゃとおもっているし、ライブの予約をDMでさせていただくとつい「すりがらす1枚おねがいします」と伝えてしまって、なんらもなの極みであるが、おすきなように呼んでいただければさいわいです。面とむかって、おい、すりがらすって呼ばれるたびに、毎回、センキュ〜〜〜。(©︎柴田聡子)っておもっています。

夢のはなし

ここ最近はへんな夢ばかりみる。とはいえ、いまにはじまったことではない。過去のツイートを見返してみれば「へんな夢みた」だのなんだのとある。なんでか、実際にはおこらないようなことを夢でみてしまうのだ。それもけっこう頻繁に。

へんな夢をみたときにはわすれる前に「夢占い」のサイトで、その夢がどういう意味なのか、どういうわけでその夢をみたのかというのをしらべている。
たとえば「なにかに追いかけられる夢」は、さし迫ったストレスから逃げたいという深層心理があるとか、若干マユツバではあるけれども、みたくもないのにみせられたへんな夢によって目がさめた瞬間から動揺しているきもちに折り合いをつけるのにはちょうどよいのである。


去年のことであるが、「お米を炊いて恋人に食べさせる夢」をみた。これは、なかなかに衝撃的な体験である。
わたしが以前付きあっていた恋人の家におり、台所でお米をといで、炊飯器にセットして、炊きたてのご飯を恋人に食べさせる、という夢であるのだが、わたしは、きれいにといだお米を内釜にいれて水をはり、そこへなぜか、なぜかわからないけれど、食器洗い用洗剤をどばどばいれて、炊飯をはじめたのであった。真っ白なお米の上に、透明な水色の液体が円を描いてぐるぐるとかけられている様子は、いまでもはっきりとおぼえている。
そのあとそのお米は(洗剤の効果なのか)ふっくらと炊きあがり、わたしはその洗剤ご飯をお茶碗に山盛りよそって、食卓でまつ恋人にさしだしたのであった。恋人はにこにこしながらおいしそうにもりもり食べていて(おいしそうによく食べる人であった)、食後に彼がどうなったか描かれないうちに目がさめた。

へんな夢をたびたびみていたわたしであったが、この夢をみたときにはさすがに自分どうかしているのでは、とおもって、すかさず「夢占い」のサイトを検索した。
しかしながら、あらゆる夢を網羅しているサイトであれ「洗剤入りのご飯を恋人に食べさせる夢」なんていうカテゴリはなく、とりあえず「毒を盛る夢」でしらべてみる。
さすれば「他人に毒を盛る夢」というのは「毒を盛った相手によくない感情をいだいている」とのことであった。具体的にいえば、その相手を排除したい、蹴落としたい、攻撃したい、など。

寝起きのぼんやりとした頭でiPhoneをにぎりしめながら、すこしのあいだ呆然としてしまった。
彼にはもうおおよそ2年会っていないけれど、付きあっているあいだも、会わなくなってからも彼のことを排除したいとか攻撃したいとおもったことはない。それどころか、さみしいことをいうようだけれど、ふつうに生活していて彼のことをおもいだすこともなかったのに、突然夢にでてきた(でてきてくれた)ところへ、どういうわけかわからないが洗剤ご飯をさしだしたわたし。

きっとあのあとわたしはしれっと家へ帰ってしまっただろう。彼は残ったご飯を晩ごはんにももりもり食べて(かなしいほど気づかずに)、おなかをこわして、なにかへんなもの食べたかなあなんて誰のこともうたがわずに不思議がりながら、あの部屋のトイレの前でひとりでうずくまっているのだろうなとかんがえたら、とても申し訳ない気持ちになった。ポカリとか飲んでどうか死なないで。ていうか食べてる途中で気づいてよ。まあ夢なんだけど。


最近みた夢は「ヴェルタースオリジナルの工場見学をする夢」である。
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ヴェルタースオリジナルとは森永製菓から発売されている濃厚なバターキャンディで、おじいさんから孫へと受けつがれる由緒正しいキャンディなのだ(たぶん)。このCMで存在をしった人もおおいだろう。キャンディひとつで「彼もまた、特別な存在だからです」というコピーまでたどりついた大仰かつ強烈な印象をのこすCMである。

ヴェルタースオリジナル

夢のなかで、わたしは製造ラインの横でキャンディがベルトコンベアの上にならんで流れていくのをながめていたのであったが、その夢によれば、「ヴェルタースオリジナルはこの1粒にバター4かけら(=40g)が入っているのじゃ」とのことであり、わたしはぞろぞろと目の前をながれていくキャンディをみおくりながら意外なほど冷静に「ヴェルタースオリジナルはカロリー爆弾である」ということをしんしんとかんじていたのであるが、目がさめてから「あの1粒にどうやって40gものバターを、というかそれはもう飴ではなくバター」という結論にいとも簡単にたどりついて、ひさしぶりにみたファニーな夢についての愚察をおえたのであった。「キャンディの工場見学をする夢」ってなんの深層心理があるというのか。*1


ちなみに今朝は「学校に大蛇が襲ってきて追いかけられる夢」でした。大蛇とは、ハリー・ポッターにでてくるバジリスク。教室のうしろのドアをバリバリやぶって突進してくるバジリスク、妙に俊敏でパワフル、ゴーヤみたいなごつごつしたからだがつくりものっぽくて可笑しかったけれど、おっかなかったです。やや、さし迫ったストレスなんてなにもないんだけどな。
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*1:ちなみにのちにしらべてみたところ、ヴェルタースオリジナルは1粒あたり22kcal、バター40gはだいだい280kcalあるらしいです。夢でよかった、くわばらくわばら。

シャムキャッツ『このままがいいね』のこと

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2017年12月12日、日付が変わると同時にシャムキャッツからとどいた、すこしはやめのクリスマスプレゼント。新曲『このままがいいね』。


ドラムとベースが整然とビートをきざむイントロ。
よせる波のように徐々におおきくなるシンバルの音に導かれて、ギターがゆたかな響きで聴く者の胸をひたす。きらきらと輝く水面を写しとったようなエレキギターのフレーズ。じゃりっとした耳ざわりのよいアコギの音。


夏目くんの甘くやわらかい声でつむがれる言葉は、1行目から真っ向勝負だった。

どこにもない自由な時を
君と今 感じたんだよ

ほかのだれにも邪魔されない、いとおしい時。
忘れたいとおもうようなことも、これをすぎたらやってくる日々のどうでもいいことも、いまは横においておいて、目の前のことだけみつめたい時。


くりかえされるフレーズは、文字どおりの"シュアショット"となって、胸のど真ん中を撃ちぬいていく。

このままずっと 二人でずっと
一緒に居れたらいいね
このままずっと 二人でずっと
抱きしめたままがいいね

みずみずしくて、うつくしくて、だけれどもまばたきするあいだに終わってしまいそうな瞬間をとらえた歌詞に、風穴のあいた胸がじんとあつくなる。


前作『Friends Again』のなかで、夏目くんはこう歌った。

何にも縛られないで 生きるなんて
憧れてしまうよね ファニーフェイス 私もそう

あるいはツアーグッズ『Tetra magazine vol.1』のなかで、夏目くんはこの曲について

テーマはわがままでいることと自由でいることについて。そして、わがままではいられないし自由ではいられないことについて。

と話している。


シャムキャッツ『このままがいいね』は、日常のなかにあるいとおしい瞬間と、その瞬間がいつまでもつづかないことを歌った大名曲だとおもう。
だけれどもそこに、『Funny Face』にあったようなすこしの悲しさややるせなさ、アルバムに収められた写真を見返すようなノスタルジーはない。

繰り返すいつもの日曜
止まらないキスで埋めようよ

白い服と黒い服を着た夏目くんが、団地のまわりを歩きながらひなたと日陰をいったりきたりする。まぶしい日差しをうける夏目くんの足元にのびる影。光と影が象徴的なMV。

うつくしい瞬間が、通りすぎていく日常のなかにあってこそうつくしいことを残酷に教えながら、同時に、記憶の日陰に押しやられてしまっても、どこかでかならずきらめきつづけることの尊さを、シャムキャッツは力づよく歌う。


CD発売日前日の1月10日、ココナッツディスク吉祥寺店でおこなわれたインストアライブへいってきた。

当日の告知にもかかわらず、写真のとおり、お客さんがぱんぱん。寒いなか、駐車場からガラス窓ごしにみていたお客さんもいた。

ライブの前に書き初めをしたり、MVで着ていた着ぐるみをかぶって演奏したり。シャムキャッツの「ライブはもちろん、ライブの時間以外もたのしんでほしい」という心意気がほんとうにすきだ。


『このままがいいね』アコースティックバージョンもとてもよかった。このさき聴くとしたらバンドのバージョンだとおもうので、なかなか聴けないかもしれないから聴けてうれしかった。
お客さんは写真や動画を撮ったりしながら、みんなとてもたのしそうだった。ココ吉みたいなあたたかい雰囲気の場所であってこそできたことだとおもう。

ちなみにライブがはじまる前、たのしみすぎて浮き足だっていて、ココ吉のレジの前でつまづきました。はずかしかったです。


買ってきたCDをさっそく聴く。

テンポの速い曲調と、MVの抜けるような青空のおかげか、風をきってすすむときの爽やかさや疾走感があってここちよい。
のびやかな歌声に耳をかたむけていれば、いまみている景色をスローモーションで、あるいは時をとめてみつめているようにも感じられる。
アウトロがおわっていくときの、口のなかで綿菓子がとけたような、じんわりとしたしあわせのひろがり。


シャムキャッツはいつだって日常に寄りそってくれる。
「このままがいいね」。
先回りも、後戻りも、立ちどまることもできない日常のなかで、刹那的でもなく、楽観的でもない、自由をもとめて前を向く希望の言葉として、わたしたちのなかに響きつづける。



このままがいいね (Stay Like This) ー MV

ココ吉の放出へいってきた

f:id:slglssss:20180108222809j:plainきょう、ココ吉の放出へいった。

きのうの21時すぎにお知らせがでた。「突然ですが」とあるけれど、突然すぎるわい、とつっこみながら、まずは画像を保存して、拡大してみる。
放出リストを穴があくほどながめてもほしいとおもうものを確実にゲットできるわけでもないのに、これにしようかなあ、いやこれもほしいなあ両方はむりかなあなんてなやんだ。放出のたびに毎回やっている。

画面をつるつるとさわって、おおきくしたりちいさくしたりして、ひとしきりリストをながめおえて、もういっかいくらいたしかめて、じゃあほしいとおもうものを確実にゲットするにはどうすればよいのか、とかんがえたとき、「いちばん先にお店にはいる」という至極単純な解を得る。毎回やっている。
それしかないとおもったから、がばっと起きて吉祥寺へむかう。あたまがぼんやりして、夜ふかしした自分をうらめしくおもう。

駅からお店まで、きらびやかな晴れ着姿の女の子を何人も見送りながら歩く。正確にいうと早歩きくらいかもしれない。さむかったけれど、お店についたら、きもちがはやったからか、さむさをかんじなかった。


扉の前で待っているあいだ、早川義夫『ぼくは本屋のおやじさん』を読んでいた。
大学生のころ、4年間、書店でアルバイトをしていたのだけど、社員さんがいってたあれはそういう意味だったのか、なんていうふうに、そのころのことをあざやかにおもいだせる、そして、そのときに出会えていたらよかったのになあとおもうような、とても健康的ですばらしい本屋さんの話。わたしは本もすきだけど、「本屋さん」がすきだから、この本がとてもすきなのだ。


放出は一瞬のできごとなのであんまりおぼえていない。コメントカードちゃんと読む時間なかったな、読んでおけばよかった。でも、ほしかったものをなんとか買えたのでうれしい。



放出のあと、ユリイカサニーデイ・サービス特集号を読みかえして、やっぱり今年もココ吉にかよってしまうなあとおもった。


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