磨硝子日記

すりがらすのブログ

12月のこと

日記と名のるブログを100日ちかくも更新せず、今年は生まれてこの方かんじたこともなかったけれどやたらに手のひらがかさつき、ハンドクリーム各社がべたつかないことをウリにしているわけをしる、もうすっかり冬。


夏の終わりに、といっても肌ではおもいだせないほど遠くなってしまったけれど、おろしたてのワンピースが汗で背中にぺたりとはりついたところをすずしい風がなでて、歩くたびにひやりひやりとかんじるような、あれはたしか8月の夜、柴田聡子の神保町ひとりぼっちをみにいったかえり、電車で両方の膝の裏がむずがゆくなりみれば、じんましんが帯をなしてでていた。

そのときは、つかれているのかなあとおもったのだけど、それからというもの、重いカバンを腕にかけた跡がミミズ腫れのようにじんましん、息があがるくらいいそいで自転車をこげば背中から肩や首にかけてじんましん、冷房のきいたZARAへはいり1Fをみおわるころには腕の内側にじんましん、きわめつけはヨガ、文字どおりの滝のような汗をかけば全身くまなくじんましん、というあんばいで、秋のまるごと、いつじんましんがでるのだろうという不安に、胸を半分くらいあずけていた。

これまでじんましんがでたことなんてかぞえるほどしかなかったのだけど、最近でるじんましんは、まずかゆみがでて、ときどき息苦しくなることがある。全身に蚊にさされたような腫れができて、2時間くらいすると完全にひく。一時的なものなのでじっとしていればなおるのだけど、とつぜん肌があわだちどうにもがまんできないほどのかゆみがやってきて、かゆいのもしんどいし、すぐにはひかないから特に外出先ならあせるし、そしてなんだかはずかしい。自分の体なのに、自分でコントロールできないのがもどかしいし、なさけない。すこし前にすきな人に会ったとき、2回つづけて手の甲にぶわっとゴマをまいたような赤い斑点がでてしまったことがあって、またかとおどろいたしけっこうはずかしかったんであった。


と、こういう体調のことをかくと、ある人は心配してくれるかもしれないけれど、体の不調をうったえると、なにか食べものとかがわるいんじゃないなどどいいながら、自業自得だろうという態度をしめされたり、あるいは、エ、じんましんやばいね、といったかんじで、ふつうそんなんならなくない?なんでそうなるの?というまなざしをうけとることがあるので、なかなかにうちあける人をえらぶ。体の不調をしめすのにも度をこすと“自己管理のできない人間”だとおもわれそうでなんとなく我慢してしまうこともおおいけれど、職場でじんましんがでたときにあっと気づいて腕をみつめていたら、上司がたしかにそれをみたとおもうのだけれど、なにもいわれなかったので、職場の人にはいわないときめた。もっともわたしは自己管理、ましてや自己管理ができていないとか意識が足りないとかそういう紋切り型の言葉はぜったいにつかわないのだけれど。

体調のわるさなんて、(わたしのつとめている)会社にとってはそんなことどうでもいいから働いてほしいわけで、訴えたところで、ひどいなら病院にでもいけば?ということなのだろうけど、それほどのことではなくてただ、そういうことなのねと気づいてくれたらいいのに、日ごろの生活がわるいのだとか、あいつちょっと変だとか、そういう色眼鏡をはずして、というか、もう粉々にして空へはなってから、まっすぐにみてもらえるだけで、だいぶ楽になるのに、それがとてもむずかしいことなのだと、体調のわるさにかぎらず「なんとか我慢できなくもないけれど、ただしんどいことをわかってほしいという気もち」をわかろうとするとか、わからなくてもウンウンとうなずくことは、とてもむずかしいのだなと気づかされる。

はずかしいことにかくいうわたしこそ、だれかのつらさをうけとめることが苦手で、べつになにもいわなくたってよくて、うなずくだけでもいいかもしれないのに、それがうまくできないのだけど、人にいわれるまで気づかなかった。じんましんがでるようになってからことに「風邪でも絶対に休めないあなたに」という風邪薬のCMをみるたびに胸がぎゅっとなるし、逆に『生理ちゃん』があれほどの新鮮なおどろきをもってうけとめられているのには胸のすくおもいだけれど、わたしが気づかないところで我慢を強いていたり、ひとりでかなしみをなぐさめる人がいるのだろうとおもうと、仮にもわたしになにかをつたえようと目くばせしてくれた人には、しんどいおもいをさせてしまってわるいことをしたなと反省している。わたしが上司になげかけているであろうあきらめのまなざしを、そのままわたしの胸につきさしてやりたい。

よく「人の痛みに寄り添う」とか「共感する」といういいかたをするけれど、いきなり寄り添うのも、ひびきあうのもむずかしい。ならば寄り添うよりも前に、向きあってすわったり、まっすぐまなざしたり、ただうなずいたり、そういうことからしようとおもうのだ。寒い夜にはそういうことをかんがえている。