磨硝子日記

すりがらすのブログ

8月のこと

9月になったと気づくときおもいだすのはaiko竹内まりやか、束ねた髪はたぬきのしっぽのようにたっぷり太く、背中にあたるとボトっと音がするほどに生き物然として、この髪はわたしの頭のなか、みききしたことがずしりと積もり、毛束をふればぶんと風を鳴らしている。会う人会う人に、髪がのびましたね、といわれ、そうか、とはっとするけれども、しばらく会っていなかった人たちとの再会をよろこぶ日々である。


いつからだったか週末にライブの予定をつめこむのをやめて、それがまたすきなバンドをみたくなって先週と今週はライブへいった。


先週は神保町試聴室でポニーのヒサミツとbjonsをみた。
実をいうとポニーさんをはじめてみたのは『GO!GO!ARAGAIN』のイベントにSpoonful of Lovin'の一員として出演されたときだった。そのときは各バンド2曲だったのでほんのすこししか演奏を聴いていないものの、『Black Peanuts』のカバーにはしずかに圧倒された。演奏や歌の巧みさはもちろんのこと、ポニーさんが細野さんに影響をうけられていることはしっていたけれど、なみなみならぬリスペクトと愛がありながらも、それをみだりにひけらかさず、すばらしいパフォーマンスへと昇華させるというストイックな矜持すらかんじて、音もなく平手打ちをくらったような気もちであった。今回はだいすきなbjonsをゲストにライブをされるとのことだったのでよろこび勇んでいくことにした。この日のライブも1曲めに『蝶々さん』のオマージュをされていたのだけど、最高にクールで、あの『Black Peanuts』の痛快さをあざやかにおもいださせてくれた。

bjons、とてもとてもだいすきなバンド。わたしは洋楽を聴いてこなかったのでほんとうに臍をかむようなおもいもするけれど、それはいったん横においておいて、とにかく聴いているとうれしくなる。いろいろな音がゆたかにかさなりあい、それがとても複雑でむつかしくても、手練れのミュージシャンのすずしい顔で、あるいはこどもどうしのようににこにこ笑って演奏しているのをみていると、胸がすくおもいがする。つややかな声にはいつでも胸をさらわれ、すぐにまた、あの声を聴きたいとおもう。このあいだ仕事の帰り、交差点をわたるときに「常夜灯よ 月の光より強く 抱きしめておくれよ クライベイビークライ」がきこえてきて、毎日横をすぎる街灯がにじんでみえるほどに、やさしくこころづよく、なんでもない景色を彩ってくれる。
このときのライブは制作にはいる直前だったそうで、半分くらいが新曲だった。新曲は転調やふしぎなコード進行がおおかったけれどふしぎなほどにとりのこされず、むしろすすむほどにのめりこんでいくような奥ゆきをたたえていて、そのうねりのなかでぼおっとしていた。はやくあたらしい曲を何度も聴きたいとおもった。

最近は友人にbjonsをすすめてばかりいて、ご本人たちにも友人たちにも疎まれるのではないかとおもうほどで申し訳ないのだけど、このインタビューがとてもすきなので読んでほしい。さきのARAGAIN!のイベントのとき、bjonsが演奏しおわったあと、司会進行の長門さんが「かっこいいでしょう、ぼくがbjonsをすきになる理由、わかるかなあ」というようなことをおっしゃっていたこと、ただのファンなのに(何重もの意味で)とても感激したのをわすれられない。ちなみに2018年にパイドパイパーハウスでいちばん売れた邦楽CDはbjons『SILLY POPS』なのだ。
r-p-m.jp


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昨日は青山の月見ル君想フで1983のリリースワンマン。ワンマンでみるのはとてもとてもひさしぶりというか、ほとんどはじめてかもしれない。年末に日本橋でみたときにはポニーさんがゲストでいらしたのでワンマンじゃなかったのかも。とにかく『渚にきこえて』はすばらしい、大傑作。

客電が落ち、ステージが照らされると、中央には林以樂が。デコルテの大きくあいたトップス、にっこりと笑い、いつもながらとてもコケティッシュでかわいい。どこかとおくの、だれもしらないthe other ocean=渚への着陸をしらせる『スカイライン』、彼女のナレーションは文字どおり水先案内人となって、ライブはめでたく幕をあけた。
新間リーダーのいうとおりアルバムの再現ライブということで、『渚にきこえて』の収録曲がつぎつぎと目の前でくりひろげられる。とてもぜいたくである。1983としてのワンマンライブは3年ぶり、いうまでもなくメンバーがおのおのにいろいろなバンドで活躍しているなかで、こうして1枚のアルバムがうまれることを、ファンとしてありがたいとおもうのは野暮だろうか。

これまでの『SUITE』『golden hour』に通底していた、ゆたかに調和したアンサンブルはすえおきのままに、遠くから吹いてくる湿った熱い風がからだにべっとりはりついたような濃密さをまとい、時折、黒々とした宝石がきらめくようなホーンや鍵盤のしらべ、まだみぬ桃源郷のすがたをあらわしたように、ここではないどこかの音を、光を、ことばを結晶にしたような演奏がつづく。まるで、まだ踏んだことのない土地をいきかう人々や、活気のある暮らしぶり、市場のにおい、肌を灼く日差し、とおりを抜ければきこえてくる波の音までもを、ありありとかんじているような気もちにさえなる。アンコールで演奏された『文化の日』ではうつくしくひびくホーンセクションがはなばなしくラストをかざり、大団円をむかえた。

1983もまた、全員そろうとこのうえないネアカ感で(たぶん主には、後方の鍵盤のあたりから大量に放出されているけど)、みていてしあわせな気もちでいっぱいになる。ちなみに『渚にきこえて』の副読本ともいうべき「渚のうらがわ」はTake Freeなのにとてもていねいで、ユーモアがつまっていて、帰りの電車で読んできゅんとした。


来月には、ついに、生きているあいだにいちどはみてみたかったミュージシャンの公演がある。新潟までいくけれどなんてことはない。クラッカーをもっていくのをわすれずに、いまからまちきれないのだ。