磨硝子日記

すりがらすのブログ

5月のこと

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ようやっと暑い日になれてきたかと思えば、すこしの雨の日がつづいている。今年のゴールデンウイークはほんとうにゴールデンだったなと思う。カネコアヤノちゃんのココ吉インストア、友達とごはん、小杉湯フェス、岡村ちゃんのライブ、友達とごはん、台風クラブのライブ、友達とごはん。もうずいぶん前のことみたいだけど、毎日ぴーかんに晴れていて、小杉湯のこいのぼりを見上げたら空が青くてとてもまぶしかったことをくっきり覚えている。

5月の心のこりは、evening cinemaのココ吉インストアと柴田聡子のタワレコインストアに行けなかったことだ。
evening cinemaは今年の1月に下北沢THREEではじめて見て、わ、すきだなと思っていたので、ほんとうに見たいと思っていたしたのしみにしていただけに残念だった。終わったあとにココ吉へ行ったら、岡村ちゃんの『イケナイコトカイ』をカバーしていたというのでレジで奇声をあげてしまった(ごめんなさい)。矢島さん、インスタあげてくださってありがとうございます、最高でしたね、わたしもそこにいたかったです。
柴田さんのインストアは、ほんとうに貴重な機会だったと思う。神保町試聴室で定期開催している『柴田聡子の神保町ひとりぼっち』も、最近では予約がまたたく間に埋まってしまって、当日券はほぼ出ていないし、今度のツアーファイナルもきっとすぐ売りきれてしまうと思う。


先日、出張で大阪へ行った。その日も朝からうそみたいに晴れて、新幹線の車窓から見える山肌や茶畑の若葉が本当にまぶしく、田んぼの水面がきらきらとして、思わず窓におでこをくっつけて景色をながめていたら、頬が日焼けしてしまった。
出張は、さみしい。慣れないところへひとりで行くのは、うきうきよりもさみしさとわからなさがおおきい。仕事のことが気になって、まちがえて車内でパソコンを開いてしまったりする。いま読まなくてもいいメールをみつけてしまって、ちょっと胸のなかでぐったりする。パソコンをとじて、つめたいコーヒーをぐびと飲んで、また窓の外の、とおいとおい景色をみる。街もすきだし、山もすきだし、海も川もすきだ。人も車も、みんなすきだ。名古屋の駅前を走っていた、あずきバーのバスに乗りたかった。

旅のBGMはもちろん、柴田聡子『愛の休日 DO YOU NEED A REST FROM LOVE?』。このアルバムを手にした日には、家に帰るやいなやフィルムをめりめりはがして、すぐに再生した。はじめて柴田さんを目の前でみた14年末のギャラリー・セプチマでみたソニー・スミスとのツーマン、15年末の武蔵野公会堂、カネコアヤノちゃんとのツーマン、16年夏の代官山UNIT、そして毎回の神保町ひとりぼっち、そこで聴いた名曲たちがおしげもなく入っている、そのことだけで、胸がいっぱいになった。

わたしのいちばんすきな曲は『スプライト・フォー・ユー』。この曲を、新幹線にのって聴ける日がくるなんて、思ってもみなかったな。去年の7月に、柴田さんの詩集『さばーく』刊行記念で、梅ヶ丘のtenonaruという古本とレコードのお店(現在は閉店。残念)でトークショー(!)があって、少人数だったのでトークショーというより座談会みたいな雰囲気だったのがとてもよかったのですが、そのときに、お客さんが順番に自分のすきな曲を言うっていうコーナーが急きょあって、わたしは自分の番で、ライブで聴いてずっとすきだった『スプライト・フォー・ユー』を挙げた。『さばーく』に収録されていない曲を選んでしまって、いらしていた編集の須川さんには申し訳ないと思ったけれど、その時からずっとこの曲をすきでいつづけているし、これからもずっとすき、この曲をずっと聴いていられるのがしあわせだなと思っている。
この曲にかんしては柴田さんがインタビューで、『すごく個人的な話』と言っていた。

“スプライト・フォー・ユー”は、私の、どうでもいい一場面の、忘れられない景色なんです。「これを全力で伝えるにはどうしたらいいんだろう?」っていうところから、このアルバムは始まっています。

柴田さんは『個人的な話』を歌っているはずなのに、わたしたちはなぜか、知らないはずの景色、感じたことのないきもちを、思いだしているような錯覚におちいる。それはきっと、根っこの部分でなにか共鳴するものがこの曲のなかに埋めこまれているからなんじゃないかと思う。これを聴いた人のなかにある物語と、どこかが重なってひびきあう、そういう曲なんじゃないかと思った。


ささいなことで、何日かしたら忘れてしまうようなことを、ときどき、ずっと覚えていたいなということがありませんか。残念ながら忘れてしまうようなことです。すきな人の顔とか、ずっと思いだせるようにしたいけど、ほかのもっともっとどうでもいいことに追いやられて、どんどん輪郭がぼやぼやになってしまう。またその上から記憶を塗りかえて、思い出になったりならなかったり、記憶が差しかわったりして、しばらくして思いだせば、なんかすきな人が、いいかんじににっこり笑っていてやさしい、そういう記憶をつくっていくわたしの頭は、ほんとうにばかだなと思うけど、いちばん最初のきらりとしたすてきなできごとを、いつまでもとっておけるようになったらいいなあと思ったりする。
逆もしかりで、いつまでたっても、どうでもいいことを舌にこびりついているみたいに覚えているのをやめたいと思うことがある。忘れたくないけれど忘れていくこと、忘れたいけれど忘れられないこと、いいことはぜんぶ覚えて、いやなことはぜんぶ忘れて、そうやって自分の都合のいいような配分で覚えていられたら、きっと夜中にはずかしくてうめいたり、急にかなしくなって泣いたり、そういうことが減るだろうなと思うけれど、ときどき思いだしてはずかしいのも、ぽろぽろ涙がでてくるのも、なんでか、ずっと、きらいになれない。

柴田さんが『後悔』のことを「泣き笑い」と言っていた。わたしはまだ、泣き笑いにできないことをたくさんかかえているような気がした。あるできごとが、どうでもいいと思えたり、もういいや!と思って明るく笑いとばしたりできるようになるには、時間がかかるなと思った、新緑の季節。

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