bjonsの宅録新曲『皮肉屋』、みなさん聴かれましたか。なかなかに何をしても滅入る、怒りやしんどさが上塗りされていくような日々にあって、だいすきなバンドが活動をつづけている、そのことだけでうれしい。暗がりの灯火であるなあとおもう。
bandcampで配信されたこの曲、歌詞は公開されていなかったので聴きながらiPhoneのメモに書きおこした。“君は嘘つき とても好きになれない”とはじまる、けして長くはない歌詞の全体を見渡して、これを書かれた今泉さんのまなざしがこれまでにないほど現実にまっすぐむけられていて、そしてまたわたしたちもおなじようなものを近いところに立って目撃している、と確信した。これまでのbjonsで歌われてきた、気づくと夢のなかにいるような、現実からふわりと浮いたような情景、彼の頭のなかにしか再現できなくて、他の人がおなじように想像しようにもできないような景色、そういう歌詞世界には一線を画していて、もうこれは彼のまなざしの先にあって、メンバーにもきっとみえているもの、そしてbjonsを慕い、この曲を聴く人にもみえるものがたしかにある。そうとしかおもえずに、今日までこの曲を聴いている。
未知のウイルスと遭遇してはや3ヶ月近くがたち、生命をも脅かす存在への恐れにかわって、リーダーシップに欠け、思慮に乏しく、民衆には内実のともなわない“座りのいい言葉”ばかりを投げかける為政者への不満が高まっている。この曲がつくられたであろう3月末や4月のはじめごろでも、どうにもできないやるせなさや無力さ、ほとんど脊椎反射的に湧きあがる怒りにふりまわされ、それらを発散することもできず気の滅入る日々を送っていた人はすくなくなかっただろうし、今でもその状況は続いている。Twitterのタイムラインでは日ごろおだやかな友人たちが怒りを露わにし、政権批判のツイートをリツイートする。わたし自身もほとんどはじめてといっていいほどに感情的なツイートを発していたし、もはや批評のないメディアによる「広報」よりも、判断のともなった情報を得たいとはおもってタイムラインを流しみていたのだけれど、切っ先鋭い言葉を浴びるたび、それが自分にむけられたものではなくても、身も心も傷つけられるようなおもいがして、SNSを離れたい、あるいは実際に離れた、という人さえいるはずだ。自らの身を守るために発する言葉が諸刃の剣にもなりえるというのはかなしいことなのだけれど、しかしながらそうして行動をおこすのは自然なことで、想像力のない相手に伝えるために取らなければならない手段で、生活を守るためにあげなければならない声で、至極まっとうなことだともおもう。
『皮肉屋』の歌詞をふりかえると、そんなやり場のない怒りややるせなさの充満する空気が真空パックされているのに気づく。音もなくあらわれた脅威が、あるいは恥を恥ともおもわない政治家たちの姿が“顔にひっついて消えなく”なり、かわらずに移ろうはずだった日常を蝕んでいく。画面ごしに顔をあわせても、埋めあわせられない社会的な距離をありありとかんじ、“誰かと誰かが折り重なっている”ことが濃厚接触なる行為として自粛を要請される。春を目前にした曲がり角の先に潜む、残酷ともおもえる世界から目をそらさずに、あたたかみのあるフォーキーな音色の経糸に、やるせなくもしなやかな素振りで皮肉のこもった言葉の数々を交わらせ、すぐそこにある「今」を編みあげた。
それでもってこれを、もともとライブに出演する予定だった日に投下する、このバンドの思慮深さとfolksへの目配せよ。骨の髄まで響いたよ、もちろん素直な意味で。