磨硝子日記

すりがらすのブログ

1月のこと

家族と紅白をみているとき、母が電話に出るやいなや大きな声をだしたので、何が起こったのかすぐに察した。伯父が亡くなった。
ここ10年以上は会っていないと記憶しているが、幼いころにはいとこと一緒によく遊んだり、旅行へいったりしていて、伯父はいつも運転席にいた。いとこは男の子ふたり兄弟なので、伯父はわたしのことを、女の子はかわいいなあといって抱っこをしたりしてくれていたのらしい。正月休み、昼間に母が洗濯物を取りこみながら、凧持って歩いてる親子がいる、と話しかけてきたとき、わたしはふいに、伯父と近所の公園へ凧揚げにいったことをおもいだしたのだった。よく晴れていたけれど風のない日で、伯父には、今日は飛ばないかもしれないよ、といわれたけれど、わたしは意地になって凧が揚がるまで頑張った。
伯父は末期がんだった。春に再発し、入退院をくりかえしていたそうだ。年の瀬になって入院したというしらせのあと、あと1ヶ月、あと週単位と聞かされていたのに、わたしたちが万が一に備えて礼服を揃えにいった翌日、伯父は急にいってしまった。57歳だった。
わたしのほうは、健康診断で乳房に腫瘤があるというので、その数日前に乳腺科へマンモグラフィーと超音波エコーの検査を受けにいったばかりだった。幸いその場で良性だろうといわれたのだけれど、伯父が末期がんであることはしっていたので、わたしもそうであったらという考えは何度も頭のなかを往来したし、ほっとはしきれない気もちだった。病気にかかることや、急に体がわるくなって生活が一変してしまうこと、もしかすると失うものもあること、そうした不安に敏感になり、信頼できる人に連絡をして慰めてもらったほどだった。そんな折に訃報がきた。
通夜と告別式のことはすでに断片的にしかおぼえていないけれど、通夜の日はとにかく寒く、それでも換気のために会場の出入り口が1ヶ所開けっぱなしになっていて、焼香を待つあいだ、ストッキングにパンプスだったので足首がずっと冷えていた。告別式の終わり、棺に花をいれていると、伯母が堰をきったようによよと泣いたのには、胸が押しつぶされそうだった。それから、荼毘に付された伯父の骨を骨壷におさめる場面は忘れられない。伯父は体が大きくて、さらに若かったからか、骨をそのままの大きさではすべて詰めきれず、斎場の職員の方が骨を砕きながら少しずつおさめたのだが、その時に天井の高い部屋ににぶく響いた、他のどんな場面でも聞いたことがないガシャリゴシャリという音を、今でもふとした時に耳のなかで再生する。体のふしぶしが痛みをかんじるような気さえする。それと、同い年のいとこの後ろ姿。久しぶりの再会はこんなふうになるともおもわず、何も声をかけられなかった。ただ彼と家族の健康をねがうことしかできなかった。
自分が言葉を交わしつながってきた人が亡くなるのは、想像以上に受けとめがたい。最期に何を考えていたのだろうか、どんなおもいだったのかなと考えると、いくつか、こんなことを考えたかしらとおもうけれど、ほんとうのところを教えてくれる人はもういないという虚しさをみつめていると、時の流れから取り残されてしまいそうになる。

年明け早々には、仕事で嫌なおもいをした。電話口で罵倒され、腹がたつ前に力が抜けてしまった。しばらくのあいだ、予定をつめこんでいて残業が多くなり、ちょっとしたことで心がささくれだった。あるとき疲れて駅まで歩くのをあきらめ、会社の目の前の停留所からバスに乗ると、夜風を受けずに駅に着くことができた。冷たい風にさらされないだけで、その日は心を守ることができた気がした。そんなことで、とおもわれるようなことが、わたしにとってはおおごとだ。朝がきたら仕事をしなければいけないし、バスは時間になったらいってしまう生活のなかで、不条理に傷つけられることもあれば、他の誰かからは必要とされて、それでもどうしようもなくなったら甘えたりして、つらさの端にいき切らないようにふんばっている。きょうも、あしたも、その先も、できるだけ長くあるといいなとおもいながら。