日曜の午後、家の近所は静かだ。柔らかくて低い日差しを感じながら30分ほど散歩をした。Air Podsを持ってきてPodcastを聴けばよかったのだけれど、鍵を閉めて家から離れてから気づいたので諦めた。歩きながら、ずっと独り言を喋っていた。わたしは人目がないとき、ほとんどずっと独り言を話し続けている。歩くとき、自転車に乗るとき、文章を書くとき、ピアノを弾くとき、料理をするとき、食べるとき、お風呂に入るとき。そればかりか、以前の会社では、オフィスで仕事をしているときにもずっと何かをまあまあはっきり聞き取れる音量でつぶやきながら仕事をしていた。一時期は同僚から「ラジオ」という異名ももらったくらいだ。自覚はあるのだけれど、どうにもやめられない。自席で黙って、目の前の作業というひとつのことに集中しようとすると、今わたしは作業をするのだという意識が強制的に働いて、頭のなかのあちらこちらで同時多発的に、作業に必要な手順や方法を考えるようになる。いわば頭がフル回転になる。ここまではおそらく多くの人がすることなのではないかとおもっているのだけれど、わたしの場合はそれと同時に、フル回転の頭で余計なことまでもが全力で気になり、たとえば、今わたしは黙っていて静かだなとか、真面目にやっていてえらいなとか、わたしは集中したいのに周りがなんだか騒がしいなとか、終わったら何を食べようかなとか、昨日見た動画面白かったなとか、唇が乾燥しているなとか、作業以外のことにも意識が指向していく。その結果、頭のなかにさまざまな考えが溢れてきて、やろうとしている作業以上の情報量を処理することになり、作業には集中できなくなってしまう。「気が散る」とも言い表せるのかもしれないけれど、わたしにとっては、本来やるべきことを少し邪魔する程度に他のことを考えているのではなく、それ自体をかき消すぐらいに他のことががやがやと湧き上がってくるような感覚だ。ひとつのことに集中すると、エネルギーを多く集めすぎるのだ。
そこでわたしが経験的にやるようになったのが、脈略がなくてもいいので、口からちょろちょろと独り言を出力するという方法だ。身体のなかにエネルギーが溜まって吹きこぼれてしまいそうになるのを防ぐことができる。余計なエネルギーを発散しているだけなので、何を話していたかとかは、たいていの場合ほとんど覚えていない。たまに今日覚えた韓国語のフレーズを復唱することもあるが、気がつくと鼻歌に替わっていたりする。今日も歩きながら何を話していたかはほとんど覚えていないのだけれど、歩いているだけだと色々と考え始めてしまい、ひどく頭が疲れてしまうので、歩くことと何かもうひとつに頭の容量を食わせて、「気を散らす」ことが必要なのだ。同じ要領で、ピアノを弾くときにテレビをつけたり、サブスクで映画を観るときに携帯で調べものをしたり、寝るときにYouTubeをつけっぱなしにしたりする。すると、自分が今いちばん集中したいことに落ち着いて向き合える(作品を作っている方々には本当に申し訳なく、失礼も承知しているのだが、そうもしないと最後まで観きれないことがある)。人混みや音楽がかかっている場所、夜道であれば、ぶつぶつと話していても気づかれないし、気づかれたとしても周りにいる人に会うことも二度とないので気にせずしゃべることにしている。
わたしがこの行動を言葉にできたのは最近のことだ。何年も前から仕事中に独り言を話していたけれど、実際周りに迷惑なこともあるし、はたから見ると、仕事に身が入っていなさそうなうえに、独り言も何か伝えたいことがあって具体的に話しているわけでもないという、どっちつかずな状態になっているので、直したほうがいい変な癖なのだとおもっていた。けれども、ピアノを弾くとき、楽譜を読もうと集中するとどうにも他のことが気になって手がつけられないのを自覚し、ひとつのことに過度に集中しないようにしているのだとハッとした。これは他の人にわかってほしいとか、同じようにやってみるといいというのではなくて、自分が無意識にしている行動を見つけることができて、よくない習慣だとおもっていたことが、自分を守ろうとしてやっていたことだったと気づいたという話。こういう気づきを得て、何かをひとつわかったようなつもりになるたび、自分のなかのわからないことの裾野のようなものが広がっていくのだ。