磨硝子日記

すりがらすのブログ

わたしを探して

家を出ると、病院のある北の方から、黒くて濃い雲が近づいてくるのがみえた。午後2時、蝉も鳴かない蒸し暑い道を、長袖のUVカットパーカを着て歩いていると、到着するころには額から汗が吹きだしてきた。

午後の婦人科は空いている。汗だくのまま、ひんやりとした診察室に入り、いつものように「お変わりないですか?」と聞く先生に、意を決して「いえ、お変わりあります」と冗談まじりにいいかけてみたが、わたしはとても悩んでいた。


初潮がきてから、生理周期というものがそれらしく存在したことがなく、数ヶ月生理がこないことも、ずっと出血が止まらないこともあったわたしは、20代のはじめから、多嚢胞性卵胞症候群による月経困難症を軽減するため、ピルを飲み続けている。もう10年ほどになるが、それがどうにも、この数年のあいだに、薬が体に合わなくなってきた。飲みはじめたころは、腹痛や気分の落ちこみ、肌荒れなど、月経前症候群PMS)がだいぶ軽減されたが、なぜか2年ほど前から、休薬期間のあたりで急激にだるくなったり、ほてりがでたり、汗が吹きだしてくることがあり、気分の不安定さもひどく、理由もなく涙がでるようなこともある。体を起こして仕事をするのが難しい日まででてきたのだった。最近では、体調があまりにも悪く、まるまる1週間ほど仕事がまともにできないこともあり、ついには依頼されていた資料についてほぼ何も手をつけられないということがあったので、男性の上司に服薬周期を伝え、出血のある期間には集中力を要する仕事が難しいことや、わたしの部下に仕事を分配して、自宅で休み休み仕事をやらせてほしいことを相談するまでになっていた。

そんな折に、隣のチームの部長が退職し、わたしはそのチームから部下を7人引き継ぐことが決まった。目下、新しい部下たちと面談をしながら、また1週間ずっと体調が戻らなかったら、迷惑をかける人が増えたら、と考えては、次に病院で薬をもらうときには、必ず不調のことを話さなくてはいけないと心に決めて、わたしはついに切りだした。

先生は「それは大変だ」と小さくいって、少し困った様子で、引き出しから資料を取りだして説明を始めた。ピルには一定期間薬を飲み続け、ある期間薬を飲まない(プラセボの錠剤を飲む)休薬期間というものが設定されているが、その休薬期間(その期間に、「生理」のような出血が起こる)に体調が悪くなるのであれば、休薬をしないタイプのピルに切り替えることで、体調が悪くなる頻度を、うまくいけば4分の1程度にまで減らせること、その薬はジェネリックがないので高額であること、わたしはこれまでにピルを服用するなかで何度か体調が悪くなり、別のピルに切り替えることをしてきたので、そもそもピル自体が体に合わないのではないかということ、そして、ピルが合わないとなると、正直にいって治療の選択肢は少なくなること。

それから先生は、ジェノゲストという薬に変えてみるのはどうかと提案してくれた。その名前を聞いて、わたしははっとした。
「間違っていたらあれなのですが、子宮内膜症の薬ですよね?」
ジェノゲストは子宮内膜症の治療薬で、偶然にも、新しい部下と面談をした際に、その薬を服用していること、副作用で体調が悪くなることがあることを聞いていたのだ。
ピルとは異なるメカニズムで月経困難症を軽減するが、ピルのようにある期日がきたらきっかりその日から出血が始まるのではなく、まったく出血のない人もいれば、不正出血が起こる人もいるのらしい。

病院にいく前に調べた情報では、最初に先生が提示してくれた、休薬期間のないピルに興味を持っていた。出血がないから、お腹が痛くなることも、頭が痛くなることもないし、ひどく体調を崩す頻度が減るとおもったのだ。しかし、価格がこれまでのピルの2倍程度ということと、この薬も体に合わない可能性があるということで、この際薬を変えて、ジェノゲストを服用してみることにした。まずは3週間分、1日2回、12時間ごとに飲む。副作用がでたら連絡し、今後の服用について相談する。


先生の暗号のような文字で書かれた説明のメモを持って、薬局で薬を受け取る。
「今回からお薬が変わっていますが、ご事情ありますか?」
丁寧に質問をしてくれる薬剤師さんに、ピルが合わないようで、こちらを試してみるという旨を伝える。目の前に、派手なオレンジ色のパッケージに入ったジェノゲストがだされた。「お大事になさってください」と見送られた時の声が耳のなかによく響き、胸がきゅっと締めつけられる。

薬局をでると、黒い雲はさらにこちらに近づいていた。雲を背にして、わたしはまだ青空の残る自宅のほうへ、力の抜けた足で向かう。マスクをつけたまま、日傘をさして歩きだすと、涙がこみあげてきて、誰にもみられないひとりの日陰のなかで、泣いた。マスクがびしょびしょに濡れるくらい、泣きながら歩いた。

どうしてこうなってしまったのだろう。いつも夜ふかししていることや、このごろ飲んだ冷たい飲み物がよくなかったのか。最近忙しいからと放っておかずに、もっと早く手を打てば他の方法があったのか。もとより、学生のころ、少しでも生理の不調があると気づいた時に、治療をしていればよかったのか。そもそも、月経困難症を治療するためにピルを飲みはじめたことについても、20歳くらいの年齢で、わたしの自力では生理を起こすのが難しいという事実を受けとめなければならないのはつらかったようにおもう(し、予定はないけれど、妊娠や出産を希望したら、それが難しいことは想像に難くなかった)。ピルを飲みはじめてからも、体に合わなければ薬を替え、それでも体調が悪くなりそうな時には仕事を減らして体を休めるように工夫し、ときには整体にいくこともあった。何度も体調が回復したとおもったけれど、それも束の間で、しばらくすると、体調は落ち着くどころかまたひどく悪くなってしまう。自分の体はもう、おもいつくかぎりに色々なことをしてみても、どうにもうまくコントロールすることのできない、できそこないということなのだろうか。もうこの調子の悪いわたし自体が、「わたし」であるということなのだろうか。そんなふうにはおもいたくないけれど、そうおもうしかないという諦めのようなものがじわじわとこみあげてきて、とてもみじめになった。

最近では、体の不調が「わたし」のとても大きな部分を占めてきていて、何をするにも体調を考えなければ計画が立てられないし、行動ができない。不調によって「わたし」の気分は変わり、時には心がささくれだって、いつもは言わないようなことまで言いだしてしまう。それでも、体の不調のせいで、「わたし」が変わってしまうわけにはいかない。「わたし」を変えたくない。「わたし」は「わたし」であるはずなのだと、調子が良いときの「わたし」を目指してしまうために、余計につらくなる。

先日、Netflixで観た『夜明けのすべて』には、上白石萌音演じる、PMSと共に生きる女性が登場する。PMSの症状はほんとうに人それぞれだけれど、体調が悪い日には部屋着姿でだるそうに寝転がって休む姿、足湯をして体を温める工夫をしていること、喫茶店ではコーヒーではなくルイボスティーを注文し、体を冷やすカフェインを避けていること、部屋にはPMSについての本が置いてあり、自分なりに勉強もしていること、それでも生理前になると人目を憚らず取り乱し、時には他者を傷つけたり、調子の良いときならするはずのない失敗をすること。繊細かつまじめな性格ゆえに、周りに迷惑をかけまいと、体の不調をなんとか解決しようとする姿や、その心の機微は、程度の差こそあれ、まるで鏡写しのようだとおもえるほどだった。
映画を観終わって数日後に、新しい部下たちとの面談をした。わたしに体の不調があること、前任の上司が男性で話しにくいことも考えて、わたしのことを話したうえで、体の不調や生理の悩みがないかなどをたずねていると、先ほどのジェノゲストを服用しているという部下とは別に、ピルを飲んでいるというメンバーが2人いた。これまでピルを飲んでいる人には時々出会うことがあったが、映画を観た後だったこともあり、この人もまた、わたしとは少し別のかたちで、不調にあらゆる手を打ち、あるいは不調にあえなく打ちのめされ、不調のある自分が「わたし」になっていくことの受け入れがたさや、「不調なわたし」と他者との関わり方、他者からの受け取られ方、そして不調とともにある「わたし」はこれからどうあるべきなのかを、きっとひとりで考えているのだろうかと、いっそう、おもわずにはいられなかった。


来週から新しい薬を飲みはじめて、体調を観察することになっているけれど、そうしながらわたしは、仕事をし、すきな本を読んで、すきな曲を聴き、すきなものを食べて生きていくだろう。これは「わたし」なのだと信じながら、大きくふくらんだりへこんだりして形を変えていく輪郭を、力ずくでつかんでとどめておくことは、もうできない。そのさみしさとともに、わたしはその時々の「わたし」をとらえては、これが「わたし」なのだとおもえる日を待ちわびている。

最近のこと

そろそろ何か書けることはないかとカメラロールを繰ってみたものの、このあいだ初めて行った焼肉ライクのミスジ&ハラミセット(200g)、新大久保で遭遇したじゃがいもを入れ忘れているカムジャタン小宮山雄飛がおすすめしていたので食べた冷麺と炭火焼き肉のセットなどしかなかった。平日は、朝目覚めてから、夜眠るまで、食事、入浴、スキンケアやメイクなど身支度を整える時間、そして睡眠を除いた、活動時間のほとんどを仕事にあてている。仕事をしている時間は長いけれど、楽しい。けれども、忙しすぎて、ままならなくなって泣いていることもしょっちゅうある。すきな人が心配してくれたのに、逆ギレして連絡を絶ってみたり、またあまのじゃくなことをいってみたりもした。また余力があれば、休日にはできるだけ着飾って、すきなメイクをして街へ出る。誰にも会わないことのほうが多いけれど、会いたかった人に会えてうれしい日は、一晩中そのことばかりを反芻して、はやくまた会いたいとおもっているうちに眠り、また仕事をして終わる日を迎える。

ライブへ行くことも少なくなった。以前は大げさでもなく毎週のように行っていたものが、今では月に1〜2度ほどになった。コロナ禍を経て、会えなくなってしまった人も多くて寂しさもあるけれど、できるだけ、興味をもってすきだと感じていることには近づいていたいし、すきだということも表明していたいし、すきなものが取り持ってくれた人と響きあいたい。


3月23日、日本橋鈴木茂のライブで笹倉さんの演奏を聴く。そのライブにはママレイド・ラグの田中さんも出演していて、笹倉さんと田中さんの共演に、すでに今年いちばんの胸のときめきを感じたというのはさておき、笹倉さんの作品は折に触れて聴いていて、やわらかくもしなやかな歌声やうつくしく調和した演奏はいうまでもないのだけれど、ご本人のお人柄も、音楽への畏怖と探究心を持ち合わせた姿勢と、猫のトトちゃんの前になると急にふにゃふにゃのお父ちゃんになるところがなんともたまらなく魅力的で、だいすきなのである。
この日のライブは、『Velvet Motel』『スピーチ・バルーン』『幸せな結末』などを歌ってくれて、演奏がすばらしいのはもちろんなのだけれど、ライブのあいだ、笹倉さんが歌うたびに、なんだかじわじわと安心感がわいて、それがどんどん増えていくような心地がした。
日々いろいろな曲を聴くけれど、折に触れて、笹倉さんを聴きたいとおもうことがある。なにか得体のしれない、尊い成分を求めている。それは、山を登ったり、川を眺めたりするのに似ている気がしている。季節がすぎれば、木は枝を広げ、葉を落とし、山は形を変えて、水は流れつづけても、そこにある山や川をそれとして見ては、ああ、いいなあとしみじみとおもう、そんな体験だ。月日が経っても、笹倉さんを笹倉さんらしくしているものが変わらずにあると信じて惹かれている。わたしは、スポットライトの下でひかえめにふるまう笹倉さんをみながら、その演奏やお人柄と、その空間に満ちている震えのようなものに、静かに、それとはなしに、でも確かに慰められて、自分を自分らしく保てているのかもしれないとおもった。

4月6日、下北沢。THREEへ行くのは何年ぶりだろうか、生活の設計の企画ライブを見る。今推しているバンドは何ですかと訊かれたら、必ず答えているのは「砂の壁」だ。ライブで見ると演奏が本当に巧くて、4人のバランス感がありながら個性が光り、タイトなリズム感の曲からメロウでレイドバックな曲までどんな曲も演奏できて、こんな曲もレパートリーにあるのかとびっくりする、いつ見ても新鮮な驚きをくれるバンドである。数日前に配信された『Tower』という新曲も、つやのあるギターの音色に、体温低めなキーボードとドラム、乾いた歌声がかっこいいのだが、ライブでは高揚感を増して聴こえたのもまたよかった。
それから、スカートの澤部さんを久しぶりにライブで見て、プロフェッショナルさと包容力、懐の深さを噛みしめた。20代のころ、聴くたびに苦しかったスカートの曲は、あまり聴いていなかったはずなのに、全部歌えるし、しっていて、今のわたしにはとてもすんなりと染みこむように入ってくるのだった。それから数日間、スカートの音源をApple Musicに入れまくり、なかでもよく『ODD TAXI』を聴いていた。さっわべっさわべさっわべ…と口ずさむたびに、少しだけ軽やかな気もちになれる。

生活の設計は、昨年の春に出会ってから、ライブへ行くのがとても楽しみなバンドだ。
ギターボーカルの大塚真太朗は、とにかくわたしとは真逆なところばかりで、ネアカで、友達がたくさんいて、人づきあいや飲み会での立ち振る舞いがたぶん上手くて、いつでもきらきら、のびのびとしているように見える。昨年、アルバムのレコ発ライブには、彼の学生時代の友達とおぼしき若者たちがわんさか集まり、さながら同窓会のような雰囲気になっているのを見て、卒業して10年以上も経つのに、こんなにもたくさんの友達とつながり、ライブに呼べば来てくれるような関係性を保っていることに驚嘆した。人並みはずれた社交性の高さで、彼のInstagramをフォローしたら、ブログ読みました!とDMが送られてきたのには、わたしにはどんな鍛錬を積んでもできないとおもった。たとえば真太朗くんが学生時代にわたしと同じクラスにいたとしたら、彼はクラスの人気者で、生徒会長をしていて、わたしは教室の後ろの席でひとりでお弁当を食べているようなイメージだ。彼とわたしは生きていく世界がちがう、くらいにおもっているのだけれど、それでも彼を気になるのは、『季節のつかまえ方』というアルバムを聴いていて、放課後のある時、彼がぱさっと鞄から取り出した文庫本が、わたしのすきな作品だった、というようなことが起こったと確信したからだ。
相容れないとおもう彼が、きっと同じことを似たようにすきでいる、ちょっと明るくて、爽やかで、この子みたいにはなれないけれど、同じような音楽に憧れているとしってからというもの、彼はわたしにとって、ひたすらに気になって仕方がない存在になった。小沢健二 meets アル・クーパーな『春にして君と離れ』のアウトロで、Oh! Jolie!と照れもせず叫んでしまう愛くるしさに、たまらず参ってしまう。新曲で、ファミレスのポテトを超食べたいと臆せず歌う姿に、わたしにもそんな日があると、うつむきながらうなずいてしまう。いつも目が合うたびに、黒目の奥まで光が通り抜けているような生気を感じて、自分の底しれない暗さが後ろめたくなってしまう。でも、それだからこそ、彼こそ仲間を連れて、ライトを浴びるのがよく似合うとおもう。これからも後ろの席で、じっと見守っているから、少しだけ通じあえるところを見つけられたことを、ひそかに喜んでいるから、だからずっと、まっすぐそのままでいてほしい。まぶしい君を、遠くから眺めていたいのだ。

2023年7月9日 山下達郎のサンデー・ソングブックを聴いて

サンソン聴きました。

達郎さんが大切にしていることがご縁とご恩であるならば、同じ事務所で志をともにした人から名指しで指をさされたのはなぜでしょうか。性加害はゆるされないと考えながら、あの人を尊敬することは、達郎さんの音楽やシティポップを愛しながら、つとめて政治的存在であろうとすることの間柄に似ていると感じます。つまり、どちらもそうであるといっているうちは、どっちつかずになることだとおもうのです。

わたしがいま必死で生きている日々のできごとと、すばらしい音楽家のうつくしい作品のなかにある物語は、これまでも少し離れたところにありました。きびしい現実から離れ、ひととき音楽に癒されることが、しあわせのひとつでもありました。そして、現実世界を捨て去ることもできなければ、粛々と生活を続けることもできないわけで、あいまいな境界をゆるやかにいったりきたりしながら、なるだけ、現実世界で政治的な存在として行動することを心がけてきたつもりです。しかし、これからはよりいっそう、忸怩たるおもいで、ふたつの世界にいっそう色濃く線をひかなければならないと感じます。

なぜならば、このことは、わたしが達郎さんの人柄や音楽をこれからもすきかという、個人的で勝手にしたらいい、とるにたらないような話にとどまらず、明確に、けっして癒されることのないかなしみをあじわった方々のほうへ、連帯することを表明しなければならないできごとだからです。
罪をしるよしもなく作品に関わっていたとはいえ、それが明るみにでた今、達郎さんがどのような発言をするのか、とても気になっていましたが、今もなお、変わらない立場をとったことを、わたしは、とてもかなしく、残念におもいます。

Summer Eyeを聴いているかとたずねてくれたあなたへ

時間どおりにたどり着けないのではないかと、いつものとおり焦っていた。何年たっても、ライブに余裕をもって到着できたためしがない。九十九折りにエスカレーターをのぼると、開けたイベントスペースがみえた。こういう場所にきたのは、ほんとうに久しぶりだ。大きな窓から、渋谷の街と、沈んでいく夕日がみえる。渋谷スクランブルスクエアの12階、BIG ROMANTIC SHOWCASEなるイベントへきた。

定刻を過ぎても、DJのプレイはつづく。こういうとき、Shazamとかするんだっけ?ひとりできて、話し相手もおらず、手持ちぶさたなまま、ぼんやりと物販をながめていたら、ステージ前がほとんどぎっしり埋まって、わたしの身長ではどこからもステージがみえなくなってしまった。
あきらめて後方に立ちどまり、他にいい立ち位置はないかとまわりに視線をやっていたら、ブースのむこうに、ベルリンのレコード店のトートバッグをさげた、みしった人がいる。菅原さんだった。

どうしてかは自分でもわからないけれど、この日わたしは、絶対に菅原さんに会えるとおもっていた。翌週、同じイベントに出演を控えているので、おそらく会場に顔をだすだろう、という、現場に慣れすぎた邪推もできるけれど、とにかく、きょうは会える、という確信があった。そうしたら、ほんとうにいた。ありとあらゆる運を使い果たして、すきな人と席替えで隣の席になったときと同じ胸の高鳴りを、静かにかんじた。

菅原さんには、3年半のあいだ、会っていなかった。最後に会ったのは、わたしが企画したライブに菅原BANDがきてくれた日で、それは、シャムキャッツSTUDIO COASTのライブから1週間後だった。SNSのおかげで菅原さんの最新の動向は目にしていたので、バンドが解散したあと、菅原さんがディスクガイドをだしたり、SAMOEDOというあたらしいバンドをはじめたらしいということはしっていた。けれども、インタビューを読んでも、SNSの投稿をみていても、なんだかいつもと違うという直感をおぼえて、それは日に日に色濃いものになっていった。菅原さんといえば、誰よりも正直に(時折シャムキャッツというバンドに対して抱かれるファンの期待とも関係なく)胸の内を明かしてくれるような印象で、話すと少しだけ、わたしまで素直になったような気もちにさせてくれる人だ。そういう彼から、これまでになかったような、ひとりだけ別の波長が感じられたのはどういう意味なのかを、ずっと考えていた。それがたまたまだと信じたかった。ほんとうのことを全部しりたいわけじゃない。むしろ、だいすきなバンドの解散の理由は、いちばんしりたくない。事実をしっても、無力だから。けれども、シャムキャッツはわたしにとって、解散と聞いて平気でいられるわけがないほどに特別で、近すぎるバンドだった。だからこそ、菅原さんが何を考えているのかが気がかりだった。 TURNのインタビューで、「解散しても僕にみんな何も言わないんですよ。菅原、何やってるんだ、とかね。」と話していたけれど、直接伝える機会と勇気がないだけで、いいたいことはたくさんあった。

ライブをみたあと、視界の端に菅原さんがいるのを確かめながら、なに食わぬふりをしてカセットテープをひとつ買った。帰りがけ、声をかけようかためらった。会えるとまでおもっていたくせに。けれどもきょうは、話しかけなければいけない。わたしは謎の使命感にかきたてられ、それでも腰が引けた格好のまま、後ろから近づいて、右腕を2回、トントンと触った。菅原さんはふりむくと、一瞬、誰だかおもいだすような表情をしたあと、目をみひらいて、すりがらす!と大きな声で呼んでくれた。久しぶりに聞いた菅原さんの声は、ものすごい引力を帯びていて、わたしは、からだごと一気に吸いこまれていくような心地がした。その勢いで、数年のあいだあれこれと考えてみぞおちのあたりに重くたまっていたわがままな気もちが、くやしいほど、いとも簡単に振りはらわれていくのがわかった。菅原さんと話しているときには、なぜだかずっと無防備な心でいられることをおもいだした。一呼吸のあいだに、しばらく足を踏みいれることができなかった安らげる居場所へと、軟着陸してしまった。

驚いて固まった顔のまま、とりあえず頭をペコペコ下げていると、菅原さんが元気?と訊いてくれた。よせばいいのに、あんまり元気じゃないですと答えると、菅原さんが、そんなこともあるよねと返してくれる。そのあと続けて、仕事はどう?と訊いてくれたので、この3年のあいだに転職しましたと答えたら、じゃあ3社目?といってくれた。菅原さんは、会えなくなる前までのわたしの転職回数と仕事内容まで覚えてくれていた。もうそれで十分だった。

それからわたしは、調子にのって、すきなバンドは3つとも解散してしまったのでライブにいっていないと話した。口から言葉がでおわったあと、ずいぶん大胆なことをいったものだとおもったけれど、菅原さんは、そうだよね!と大笑いしたあと、Summer Eyeは聴いてる?とたずねてくれた。おもいがけない質問に、面食らってしまった。きっと、菅原さんは、わたしが夏目くんのことをだいすきだとしっていて訊いてくれたのだとおもう。わたしは、聴いていないし、ライブにもいっていない、と答えた。続けて、SAMOEDOは聴いてる?と訊かれたので、同じように、聴いていないと答えた。そう答えるほかなかった。聴いてますと答えたって、必ずばれるとおもったから。わたしの答えを聞いて、菅原さんは腹を抱えて笑っていた。そんなふうにいってくれてうれしい、Summer EyeやSAMOEDOを普通の気もちで聴けるわけがないよね、といってくれたのだった。

シャムキャッツのことも、Summer Eyeのことも、なぜだか菅原さんに話すのだけははばかられて、その話題だけにはなるべく触れないようにしようとさえおもっていた。おたがいに、いいたくないし、聞きたくないような話になるのがこわかったから。でも、いざ話してみると、拍子抜けするほど自然な会話になった。本人を目の前にして、気が引けたわけではない。菅原さんがあまりにもさっぱりとした風通しのよい様子だったので、いろいろなことに区切りをつけたのだと、わたしのほうもあきらめがついたのだ。話し終わるころには、ずっと引きつれてきた心残りもかたづいていくような気がした。

別れぎわ、SAMOEDOの次のライブはいつかと訊くと、5月7日だと教えてくれた。3日後だった。菅原さんは、こないだろうけど、とでもいいたげに、にやりと笑いながら、はっきりと、7日ね!といって、むこうへ歩いていった。そんないたずらなことをされたのははじめてだったので、圧倒されて固まってしまった。でも同時に、胸がすくようなおもいもした。ずっと立ち止まったままで、手をさしのべられれば必ずつかむようなわたしに、そこにいてもいいし、すすんでもいいし、別の場所にいってもいいけれど、どうしたいのかと、あえて手をふって投げかけてくれたような気がしたから。会場をあとにしながら、わたしは迷わずに、心を決めた。

いそがしい頭のこと

髪を切った。顔まわりに大きくレイヤーを入れてもらった。NewJeansのハニちゃんやダニエルちゃんみたいに。ずっとやってみたかったから。はじめは目的があったようで、最近ではなんとなく伸ばして背中の真ん中のあたりまで伸びた髪を、鎖骨の下あたりまでばつっと切った。わたしにとって髪を切ることはとても重要なことだ。この髪型で、どんな服を着て、どんなメイクをして、どこで何をするのかを考えては、Instagramでイメージに近い画像をスクショして、念入りに美容師さんに説明して再現してもらう。この美容師さんにはもう8年ほど髪を切ってもらっているが、毎回イメージどおりかそれ以上に仕上げてくれるので、大きな鏡の前で感嘆する。というか、本人でさえも、こんな感じにしたいけれどそれをわたしの頭に搭載したらどうなるかわからないですという状態でオーダーしているのに、できあがってみると、おお、わたしはこのスタイルがしたかった、インスタでみたモデルさんとわたしはこんなにも髪の量や頭のかたちや顔のつくりがちがうのに、モデルさんの髪型をそのままわたしの頭にポンとのせたようではなくて、わたしの頭をこのモデルさんに近づけてくれたのだなとおもえるできばえで、ありがたいことこのうえない。


わたしの好みと、好みとは関係なくここにある体の両方をわかっていてくれる人はすごい。美容師さんとか、整体のあおやぎさんとか、ピラティスの先生とか。
髪のことでいうと、わたしは髪の量が多く、毛が太くて硬く、直毛寄りなので、髪の柔らかさを活かしたふんわりとしたスタイルをするには、ものすごい努力がいる。まず相当に量を減らさないといけないから、セットしていないとスカスカになるし、かといって巻いたとしても髪のハリが強すぎて、エアリーな感じよりもブリンとした弾力感がでてしまう。美容師さんにいちど、テレビ朝日の弘中アナウンサーのような外ハネのボブにしたいと伝えたところ、わたしの髪のポテンシャルからは最も遠いところだと教えてくれた。それでもわたしのなりたい髪型を目指して、あの手この手をつかって、なんだかみたことのないかろやかな髪型に仕上げてくれたことがある。もう髪のことはこの人におまかせしようとおもったのだった。

あおやぎさんもそうで、彼はわたしのすきなものをきっとよくしっているし、できないことや苦手なこともしっている。すきな食べ物や食生活について。すぐにいろいろなことを考えすぎて頭がいそがしくなってしまうことについて。あと夜ふかしをしていることについても。でもそれをどうこういうこともなく、最初に会ったときにはだいぶ体が弱っていたので冷たいものと甘いものを控えるようにいってくれたくらいで、あとはせっせと施術をしてくれる(なぞの呼吸で)。わたしがこれまでつれてきたのになんにもよくわかっていないわたしの体について、わたしよりもよくしっているのがなんともおもしろい。きみはこれをきっとすきだとおもうよといわれて送られてきたApple Musicのリンクを開いて、にっこりするときの気もちに似ている(ところでこれも実際すごく多いんだけれど、みんなわたしの好みがよくわかっていてすごいね。そんなにわかりやすいですか?そうですよね)。

それから最近ピラティスをはじめて、わたしが通っているスタジオで何人かの先生に会ってみたが、なんとなくバイブスのあいそうな先生に出会うことができた。先生はほめ上手で、運動でほめられたことなど記憶にないのに、やる動きごとにうまいです上手ですといってくれる。そもそもわたしがほめられることだけを燃料にして生きていることをもうみぬいたのかと震えたのだが、それだけでなくわたしの体をみては気づきをくれるので、それを聞いては頭がいちいち閃光を放って驚き、毎度(つながるはずのない)体と頭がたがいに気づいて、すこしだけ手をのばしあって近づいていくような気もちになる。ヨガを習っていたとき、わたしは四つん這いの姿勢がなんとも息苦しくてつらい姿勢だと感じていたのだが、先生から腕や肩まわり、手首の使い方を教わると、苦しさが軽減されたのもその体験のひとつだった。


このあいだ読んだ本に、体は正直だけれど、頭はそれを頭で考えて無視することができるから、無理して働いて体をこわすみたいなことが起こるといったようなことが書いてあった。おそらく素直に読んでいけば、だから体を大切にしましょうともとれるけれど、反対に、頭で考えてみて嫌だとおもうことを、体にさせられるのかとおもうと、わたしにはとってもむずかしくて、だからこそいつでも頭のなかは竜巻のように、あるいはぐらぐらと煮たつ鍋のなかのようにおちつかない。ひとえにわたしは体を動かすためにものすごく頭を使っているというだけなのだけれど、頭でウーンと考えないと体を動かせないつくりになっているので仕方がない。ぼおっとしていられない。ずっと前に、あおやぎさんから、たまには音楽でも聴いて息抜きしなといわれたことをおりにふれておもいだすけれど、いわれたとおりにできたためしはない。それもきっとわかっているはずだからいいのだけれど。

1月のこと

家族と紅白をみているとき、母が電話に出るやいなや大きな声をだしたので、何が起こったのかすぐに察した。伯父が亡くなった。
ここ10年以上は会っていないと記憶しているが、幼いころにはいとこと一緒によく遊んだり、旅行へいったりしていて、伯父はいつも運転席にいた。いとこは男の子ふたり兄弟なので、伯父はわたしのことを、女の子はかわいいなあといって抱っこをしたりしてくれていたのらしい。正月休み、昼間に母が洗濯物を取りこみながら、凧持って歩いてる親子がいる、と話しかけてきたとき、わたしはふいに、伯父と近所の公園へ凧揚げにいったことをおもいだしたのだった。よく晴れていたけれど風のない日で、伯父には、今日は飛ばないかもしれないよ、といわれたけれど、わたしは意地になって凧が揚がるまで頑張った。
伯父は末期がんだった。春に再発し、入退院をくりかえしていたそうだ。年の瀬になって入院したというしらせのあと、あと1ヶ月、あと週単位と聞かされていたのに、わたしたちが万が一に備えて礼服を揃えにいった翌日、伯父は急にいってしまった。57歳だった。
わたしのほうは、健康診断で乳房に腫瘤があるというので、その数日前に乳腺科へマンモグラフィーと超音波エコーの検査を受けにいったばかりだった。幸いその場で良性だろうといわれたのだけれど、伯父が末期がんであることはしっていたので、わたしもそうであったらという考えは何度も頭のなかを往来したし、ほっとはしきれない気もちだった。病気にかかることや、急に体がわるくなって生活が一変してしまうこと、もしかすると失うものもあること、そうした不安に敏感になり、信頼できる人に連絡をして慰めてもらったほどだった。そんな折に訃報がきた。
通夜と告別式のことはすでに断片的にしかおぼえていないけれど、通夜の日はとにかく寒く、それでも換気のために会場の出入り口が1ヶ所開けっぱなしになっていて、焼香を待つあいだ、ストッキングにパンプスだったので足首がずっと冷えていた。告別式の終わり、棺に花をいれていると、伯母が堰をきったようによよと泣いたのには、胸が押しつぶされそうだった。それから、荼毘に付された伯父の骨を骨壷におさめる場面は忘れられない。伯父は体が大きくて、さらに若かったからか、骨をそのままの大きさではすべて詰めきれず、斎場の職員の方が骨を砕きながら少しずつおさめたのだが、その時に天井の高い部屋ににぶく響いた、他のどんな場面でも聞いたことがないガシャリゴシャリという音を、今でもふとした時に耳のなかで再生する。体のふしぶしが痛みをかんじるような気さえする。それと、同い年のいとこの後ろ姿。久しぶりの再会はこんなふうになるともおもわず、何も声をかけられなかった。ただ彼と家族の健康をねがうことしかできなかった。
自分が言葉を交わしつながってきた人が亡くなるのは、想像以上に受けとめがたい。最期に何を考えていたのだろうか、どんなおもいだったのかなと考えると、いくつか、こんなことを考えたかしらとおもうけれど、ほんとうのところを教えてくれる人はもういないという虚しさをみつめていると、時の流れから取り残されてしまいそうになる。

年明け早々には、仕事で嫌なおもいをした。電話口で罵倒され、腹がたつ前に力が抜けてしまった。しばらくのあいだ、予定をつめこんでいて残業が多くなり、ちょっとしたことで心がささくれだった。あるとき疲れて駅まで歩くのをあきらめ、会社の目の前の停留所からバスに乗ると、夜風を受けずに駅に着くことができた。冷たい風にさらされないだけで、その日は心を守ることができた気がした。そんなことで、とおもわれるようなことが、わたしにとってはおおごとだ。朝がきたら仕事をしなければいけないし、バスは時間になったらいってしまう生活のなかで、不条理に傷つけられることもあれば、他の誰かからは必要とされて、それでもどうしようもなくなったら甘えたりして、つらさの端にいき切らないようにふんばっている。きょうも、あしたも、その先も、できるだけ長くあるといいなとおもいながら。

どうしようもないこと

駅を出ると、大きくて丸い月が浮かんでいた。都合よく雲がよけたところに場所を取り、びかびかと光るので、図々しさにおっかなくなり、それを背にして家へむかう。なるべく振り返らず、直視しないようにした。月を見るのはなぜだか怖い。女性は月の満ち欠けによって身体に波が寄せては返すのだと聞いたが、それは実感としてほんとうではないとしても、あの悪気のない明るさに吸い込まれそうになる。中秋の名月とやらは美しいわけではない、おそろしいのだという気もちを、わたしはここに記しておこうとおもう。

予感を見過ごさないようにしたい。手相には詳しくないが、手のひらの真ん中のあたりに十字の線が出る「神秘十字」というのは、絶体絶命の危機から守ってくれるものなのだと、手相芸人の島田秀平が言っていた。浅田真央小栗旬にもあるというし、先日タワレコで見た達郎さんの手形にもそれらしいものがあったし、そして父の両手にもくっきりとあった。わたしの両手にもある。ああ運の尽きだとおもった時にも、なぜだか最悪なほうへは転ばないのは、この神秘十字のおかげだと信じていて、それは決断する勇気のもとにもなっている。たとえば、胸の中にぽっと浮かんできては、どうでもいいと片づけそうになることを、たまに大真面目にやってみたりする。この数年はしんどいおもいもたくさんしたが、その時時の選択が廻り回って今のわたしを助けるという場面に、この1年くらいでやたらと出くわす。どうしようもないとおもった時に、こうするしかないのだと、確かなことはなくても信じて進んだわたしに手を振るようなことが多い。ときどき、ふと手のひらを見ては、消えていないか確かめる。ことに顔のしわはせっせと色々なものを塗りこんでどうにかやわらげようとするのに、このしわだけは取っておきたいとおもうのはふしぎで仕方がない。とてもよいことばかりが起こらなくてもいい。ただ、どうしようもないことから、からがら逃げて生きていきたい。

会社のオフィスが移転した。以前に通っていた池尻大橋では、地上に出るとでかい鳩が闊歩していて、首都高の高架下にあるごみ置き場の前をうろうろとしているのを見やりながら歩く朝にだけは、いささか胸が塞ぐものがあった。駅から会社までの怠惰な坂をずっずと上り、それからまた急勾配をすたすたと下りるころ、ひととおりの現実がリロードされていく感覚は、心地の良いものではない。神泉のほうへ行くと夜は真っ暗で細い道も多く、疲れてぼおっとしながらひとりで歩くにはやや危ないような気もして、なるだけ出社を減らして在宅で仕事をしていた。
それでもわたしにとってはまだ地の利があった。これまで4つの会社に勤めてきたが、街を歩いていて、ここはわたしがいるべきでないと感じるところでは長く働けない。新卒で入社し、1年9ヶ月でやめたのは銀座にある会社で、転職して3ヶ月でやめたのは新橋の会社だ。華やかなイメージもある街だし、不便なわけでもないのに、わたしにとっては通うだけでなぜか息苦しく、いつも目に映るものが灰色で(それは、ビルばかりが多いからではない)、街には申し訳ないが一方的に相性が良くないと感じた。かたや青山にある会社にいた頃には、評価こそされなかったが、同僚に恵まれ、すきな服を着て、すきなメイクをし、わりといつも健康だった。夜も明るく、246沿いでも緑が多く、空気が良いような気がした。
今回はまた青山エリアに越してきた。一般社員の意見が反映されるはずもないオフィスの所在地について、家から近いのかとか、駅からは近いのかとか、ランチで行く店があるかどうかとか、そういうことの他に心配が多かったけれど、想像以上に良い場所だと感じている。ちなみに駅からは15分以上歩くので、普通に考えれば不便の域ではあるのだろうけれど、ブランドショップや飲食店が顔を向ける通りを歩くのは楽しい。雨が降っても寂しくない。長い通勤路が終わりに差しかかると、日傘を閉じてひだをたたみながら、首都高を仰ぎ見る。左を向くと、青山にある会社にいた時と同じように、六本木ヒルズの全身が見える。おもわずにやっとした。

2年以上、気づかれていないとおもっていたことが、ばれていた。悪いことをしたわけではなく、ちょっとした目配せをしたので、もしかしたら気づかれるのかもしれないとおもいながら、気づいた時にもきっと、むこうからは、あれってと言ってくることは絶対にないとおもっていた。無粋なことはしない人だから。でも、ばれていたのがわかると、こうなるような気もしていたような気がするからおかしい。そうして色々なことは整えられて、きょうも、きのうのことも、ずっと前のことも、おもい出せないことも、どうしようもないけれど、どうにかなるのだ。