磨硝子日記

すりがらすのブログ

新幹線の窓から

新幹線というのは、ふしぎなのりものだ。電車のようで、電車とはちがう、のりもの。

指定席を前もって買うよりも、なんとなく、あ、新幹線のるんだったという感じで自由席を買って、きっと座れるよねと思いながら、がらがらをひいてホームを歩く。自由席の車両はとおい。お弁当を売っているような売店は、自由席の車両の近くにはないから、とちゅうでお弁当やおかしを買って、またがらがら歩く。お弁当のビニール袋はがさこそかさばる。3両目のうしろのドアから入って、空いている窓側の席を見つけたら、ラッキー。3人掛けの通路側が空いていたら、窓側の人に、ここいいですか、と声をかけて、だめですと言われるはずもないけど、いちおう確認して座る。2人掛けの通路側が空いていたら、さらに、すいませんという顔で窓側の人にちゃっかり座る。となりの人がおいしそうなお弁当をたべているのを、じっと脇目でみる。たのしい。

席にすわって飲みものをごそごそしているうちに発車して、ほどなく車内案内のジングルがながれる。曲はTOKIOの『AMBITIOUS JAPAN!』。小学校にあった大きな鉄琴を、ペダルをふんで鳴らしたみたいな音だ。なぜか最初に、メロディーではない「ラ」の音がぽーんと投げこまれていて、なんで「ラ」はいってるのか、と毎回思うけど、なんでかはわからない。

お弁当をあけて、とにかくやたらに包装の部品が多い、こまごまと包装紙やフィルムやらのごみがいっぱいでて、広げているうちに前の座席の背中からばたんとでてくるあのテーブルがいっぱいになってしまう、というか、お弁当の箱ですでに、テーブルいっぱいになってしまって、もう飲みものをおく場所がない、わたわた、などとしつつ、やっとひとくち食べて窓のそとに目をやれば、遠くまでひらけてよくみえて、近くのビルは残像、遠くのビルはごくゆっくりと流れてゆく。車が走っている。人が歩いているのが見える。

ふだん、物理的にも、人間関係からみても、ごく狭い範囲で生活しているわたしにとって、世界地図をみて日本がこの小さい細長いのだと知っていても、自分の生活している世界がすべてで、世界の真ん中から端っこのような気がする、いつまでたっても想像力がとぼしくて、だから新幹線にのると、窓の外に日常がくりひろげられている、人が生きている、わたしの知らない人たちとわたしの生活が実は地つづきであることを思いだして、何度でもはっとする。考えてみれば、東京では1時間電車に乗っても、東京のなかにいるし、新幹線にのれば、あんなにはやいスピードで走っても、2時間半でまだ大阪だし、4時間走っても、日本列島からびょーんと飛びだしちゃったりすることはなくて、そうなると日本列島はとてつもなく大きいんじゃないか、とか思うし、じゃあ地球って、もっとほんとうに想像がつかないくらい広くて、わたしが生きているあいだに行けないところがたくさんあるのがくやしいなと思う。

電車に乗っているときは、こういうことは考えなくて、景色をみても、おなかすいたなとか、はやく着かないかなとか、そういうことを考える。新幹線にのるときはまだまだ、おでかけ気分だから、日常的なことをふとあんまり考えなくなって、仕事のこととか、ほんとうにどうでもいいことを、豆電球がふぁっと一瞬ひかるみたいに思いだしても、なんとなく景色をみたりして忘れる。でも、その見つめる先の景色にも、ある人にとっての日常があって、だからわたしたちはきっと、新幹線にのって、日常のなかを駆けぬけているのだな、と思う。白いボディにまもられて、わたしの日常とつながるかもしれない、知らない人の日常のなかを、まだなんにもわからずに、ぼんやり眺めて通りすぎてゆく。いま見えているビルの窓の向こう、マンションのドアの向こう、建ちならぶ家家の中に、きっと人がいて、ひとりひとりがそれぞれにちがう生活を送って、その生活と生活がどこかで交わったり、一生交わらなかったりするのだなと思うと、急に自分が小さい点に思えてくる。わたしと、わたしの周りの知っている人たちを囲む円が、この世に生きている人の数だけあると思うと、なんだかわたしの頭では推しはかれない、大きなことだなと思って、ぼーっとして、お弁当食べよ、と思うのだった。

ちなみに、大阪へ出張したときに、はやい電車にのれば、京都まで30分ちょっとで行けると知って驚いた。なんでか大阪から京都へは、ひょいと府をまたげるのらしいね。

髪の毛をめぐる話

わたしの髪の毛、量は多く、毛は太い、パーマやカラーはなし、大学生のときに、カラーがおもしろくって何種類かの茶髪にしていたこともあるけど、最近はしていない。もともと茶色がかっている色で、自分ではけっこう気に入っている。
子どものころ、量が多いうえにくせがあり、いつも決まったところのひとかたまりの髪の毛が波型にうねっているのが悩みだったけれど、中学生になってドライヤーを使うコツを身につけてからは、ニクロム線のように太い毛がいつもぴんぴんに伸びている、ストレートヘアになった。

基本は前髪ぱっつん、あごのラインでまっすぐにそろえたボブ。後頭部がでっぱっている頭の形ゆえに、川上未映子さんがエッセイでまったくおんなじことを書いているけれど、ポニーテールが激烈に似合わない。重力に逆らってポニーテールの毛束が頭を引きのばしているような感じになってバランスがわるい。そのかわりボブにしておくと、でっぱった部分がアンコ(七五三や成人式、和装をするときに、頭のてっぺんをこんもり見栄えよくさせるために盛り髪のなかにつめる、毛玉みたいなやつ)の役割をはたして、なんだかいいあんばいで形が保てる。中高時代はいつも全体をボブにして、前髪は伸びてきたら文房具のはさみを使って洗面台でぱっつんと切った。ときどき失敗した。aikoの『シャッター』をいつも反芻した。

切りすぎた前髪 右手で押さえて少し背を向けた
嫌われたくないから

恋をしているわけでもなかったのにこの一節だけは頭のなかで何度もなぞっている。前髪を切るのに失敗したらきっと、はずかしくてすきな人のことをまっすぐ見られないんだなと思いながら、わたしには関係のないことだなと思ってぼんやりすごした。

大学生になって、なんとなく茶髪にした。地毛が少し明るい茶色なので、市販の「ダークブラウン」で染めると、地毛よりも暗い色に染まった。少しするとだんだん色が抜けてきて、赤っぽい茶色になって、毎日コスプレのウィッグをかぶっているみたいな気持ちだった。自分の髪の毛じゃないみたいだったから。自分として限界の明るさまで色が抜けたら、また暗めの色で染めなおした。それをくりかえして、5回くらい染めたと思う。赤毛のときに撮った写真をみると、わたし若かったな、と思うけれど、いま見ても、その当時からも、なんかわたしと違うと思った。それきり、カラーはしていない。

そのころ、少しずつ髪の毛を伸ばしはじめた。入学した時にはあごのラインのボブだったけれど、そのまま切らずに伸ばして、成人式のころには胸まで伸びていた。もちろん振袖を着るときに自分の髪で結いたいというのは大義名分ではあったけれど、青文字系モデルの青柳文子ちゃんにあこがれて、青柳ちゃんの「ゆらゆら巻き」をするために伸ばしていたというのもある。
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当時の写真を見ると、なんというかほんとうにふわふわの巻き髪で、前髪がくるりんとしていて、うわわーと思う。
成人式を終えて、マッシュにする。わたしは菊池亜希子さんをほんとうにずっとすきで、アルバイトをしていた書店で「菊池亜希子フェア」を企画したくらい、ほんとうにすきなのだが、毎日彼女のムック『マッシュ』を読んでいると、襟足がすずしそうでいいなあ、前髪のラインががぴっと耳に向かってつながっていいなあと思うようになる。
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たっぷりたくわえた髪の毛をぶらさげて椅子にすわり「マッシュにしてください、えへへ」とへらへら告げたら、美容師さんに何度も、切っていいのか確かめられた。「いいですよ」と何度もこたえて、最初の毛束をじょっきり切った時に、少しくらいかなしくなってもいいのに、何にも感じなかった。このあたりから、髪の毛をどんどん短くしたいと思うようになった。

わたしとしてはマッシュのまま就活をしてもよかったのだけど、まわりの人から、「そんな個性的な髪型はやめたほうがいい」といわれた。いまでも、マッシュが個性的なのかどうかはぴんときていない。まあでも、就職できないとこまるので、なんとなく普通っぽいボブにした。いつもの、前髪ぱっつんのあごのラインのボブ。就職できたのはよかったけれど、はげしくつまらない髪型だと思った。その当時付き合っていた人が、もうこれ以上短く髪の毛を切ってくれるなと言ってきて、なんでも、これ以上のショートヘアはかわいくない、とのことであった。わたしはふふんと聞いたけれど、腹のなかでは、お前のいうことなんて聞いてやるもんか、なんで髪型まで決められないといけない、お前なんかより、この髪の毛とわたしの付き合いのほうがずっと長くってもう20年以上だ、そして、なんか、髪型がかわるだけでわたしがかわいくなくなったり、かわいいままでいられたりするのか、そんな程度なのかと思ってくやしくて、その人と別れてからほどなくして、再びマッシュにした。付き合っている間に切れなかったわたしは意気地なしだった。

マッシュにしてからはもうどうにも歯止めがきかないくらいどんどん短く切るようになってしまった。前髪をセンターパートにしたのは『After Hours』のときのシャムキャッツ夏目くんへのあこがれ。

シャムキャッツ - AFTER HOURS
それはけっこうすきで、そのあとは前髪をつくったりして、それもまあまあ普通に気に入っていて、どうしようもなく仕事がいそがしいときに1秒でも早く乾かせるように超絶短くしてしまって後悔したりした。

いまはけっこう短めの耳が出るマッシュにしている。さっきドライヤーをしながら、サイドの髪の毛が耳にかかりはじめているのに気づいて、また伸びたなあと思う。ここで、いつもなら、さて来週か再来週にまた切りにいきましょうかとなるのだが、もうさすがに、髪の毛を短くするのはやめようかと思う。最近ついに髪を切りすぎなんじゃないかと、おそまきながら気が付きはじめたから。わたしに髪を切るなと言っていた人のことをぼーっと思いだして、すぐに忘れる。もうどうでもいいのに、あのまま切らずに伸ばしていたらきっと今ごろロングヘアになっていたなと思ったりする。それをくりかえしている。いま髪の毛を伸ばしたところで、別に誰のためでもないけれど、なんというか、やっぱり髪の毛が長い女の子はかわいい、などという全き事実から目を背けられないでいると、髪の毛を伸ばすことが、自分がかわいくなるためにがんばる、自分をかわいくみせようとしているみたいで、とてつもなくあざといことをしている気持ちになってなさけない。髪の毛を伸ばしたい気持ちはあるけれど、なんだかはずかしい、そういう折り合いがつけられずに、少しずつ伸びてくる髪の毛を毎日さわっている。

拝啓 ココナッツディスク

twitterをフォローしてくださっている方にライブ会場などでお会いすると、「ココナッツディスク、おすきなんですね」と言っていただくことが多い。わたしはそのたびに、うれしはずかし、「あ、あ、そうですね、ええ、、」などと、にたにた笑うことしかできず、初対面のみなさんにくちびるゆるゆるの気味わるいにやけ顔を披露しているのですが、お気づきのとおり、わたしはココナッツディスクがすきです。最近ではうすうす、きっとココナッツディスクのtwitterアカウントをみている方の中には「このTLによく流れてくる磨硝子ってどこの馬の骨、、」と思っている方もいらっしゃるかもしれないと思いはじめて、いやひとりもいないかもしれないけれどとにかく、自己紹介のきもちもこめて、普段とてもお世話になっているココナッツディスクのみなさんに、ココナッツディスクのことをどんなにすきか、ココナッツディスクがどんなにすてきかというのを伝えたくて、片思いのラブレターを書いて、放課後の机の中に投げいれてみようと思います。見つけたら、ひとりで、こっそり読んでください。

まず、ココナッツに最初に行ったのは3年前くらいだと思います。なんで行ったのかは覚えていないのですが、たぶん柴田聡子『いじわる全集』(2014年発売)を買ったと思います。柴田さんの曲をそのころ聴きはじめて、ニューアルバムの取扱店舗に書いてあったのがココナッツディスク吉祥寺店。
友達の影響で、柴田さんをはじめ、ミツメとかシャムキャッツの音楽に親しみはじめていたので、ココナッツディスクのことは聞いたことがあったと思います。ココナッツってなんだ、どこからきたんだ、という妙なひっかかりもあって、友達に「どんなお店なの?」と聞いてみれば「トロピカルレコ屋だよ」と言われたので混乱した。

レコ屋、、、レコード屋さん?
CD屋さんなら知ってる、黄色に赤のお店とか、黒にピンクのお店とかよく行くし。でもレコード屋さんには行ったことないな。
そもそも、レコード聴いたことない。うちにプレイヤーもない。レコード屋さんに行って、レコード買わずに帰ってもいいのかな?
などと逡巡してみたのですが、どこへでもどんと行ってみるという無鉄砲な性格が、(いま思えば)さいわいして、ココ吉の扉をギリリと開けてみたのでした。たのもー!

そこからはいつ行ったのか覚えていないけれど、ココ吉にはぽつぽつと何度かお邪魔したように思います。

そしてそして2016年の秋頃に、いろいろなことがかさなって、ついにターンテーブルをえいやと購入しました。これで、念願のエンジョイレコードライフを始めることに相成ります。
1枚目のレコードは、神保町試聴室で買った、柴田聡子『柴田聡子』。さて2枚目をどこで買おうか。
そういえば、ココナッツディスクはレコード屋さんだったな。おや、ユーミンの『パールピアス』を売ってるらしいじゃないか。ユーミン、すきだな。たのもー!(2回目)

そういうわけでココナッツを知ったきっかけはふとしたことだったのですが、通いはじめて、どんどんココナッツっていいな、さいこう、と思うようになって、仕事の帰りにココ池に寄ったり、週末にココ吉に行ったりして、いまに至ります。

そのころtwitterをはじめたこともあって、ココナッツの入荷情報がすぐに手に入るようになったことも大きく、そして140文字のなかに愛をぎゅうぎゅうにつめこんだ矢島さんの商品紹介をつぶさにみて追いかけていました。いまも、毎日かかさずみています。
大学時代に書店でアルバイトをしていたこともあり、「商品をおすすめする」という営みのむずかしさは曲がりなりにも感じていました。ポップを書いていたこともあるけれど、うまく書けたと思ってもぜんぜん売れなくて、お客さんに見つけてもらえなくてもどかしいなと思ったり、それがはね返って自分の情熱が不発だったのか?と疑ってみたり文章力がないのか?と限界のようなものを感じたり、とにかく人に伝える、それも「これは自分がよいと思っていて、あなたもきっとすきだと思うから、これのこと、知らないかもしれないし、興味ないかもしれないけど、すっごくいいから、手にとってみて、そしてできたら買って、というか絶対買って」と伝えて説得するのは、究極的にむずかしい。
ココナッツに行った時に、面でずらーと出ているもの以外も、すべてポップがついていて、しかも手書きで、ほんとうに驚いたし、それを読んでどんどん欲しくなって、もっともっと驚いた。これは、ほんとうにすきじゃないと書けない、すごい、熱量にひれ伏してしまった。こんなに情熱をもって、すきなものを、よいものを、すきだよ、これはよいものだよ、(だから買ってね)と伝えてくれている、びしばし伝わってくる、んええさいこう、このお店の人を尊敬する。わたしはまだレコードの知識があまりなくて、何を買ったらいいんだろかと思うこともあるけれど、知らないミュージシャンのレコードも、知らないタイトルも、ココナッツの手書きポップをみて、ほしくなって結構買っていて、たぶんこれは、自分ではみつけられなかったなというアルバムにいくつも出会ったりしています。わたしが1番すきなポップはこれです。
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これはほんとうに愛、こんなに愛されているアルバムがうらやましい、澤部さんがうらやましい。

ポップ以外にもすてきなところがたくさんあって、たとえばインストアライブを無料で開いてくださるところがすきです。だって、無料で、たのしくて、今日のライブよかったなと思ったらすぐにレコードやCD買えて、サイン会とかもあって、わ、澤部さんが近い、ギターの音がすぐそこで鳴っている、歌ってほしい曲リクエストとかできる、感動、みたいなことも思ってたのしくて、さいこうじゃないですか。毎回いそいそと行っているのですが、いつもハアよかったなあと吉祥寺の駅までふわふわ夢見ごこちで歩くばかりです。

そしてココナッツをいいなと思う、ほんとうの最大の理由は、とてつもなく安心してレコードを買えるからです。レコードを選ぶときにも、お店にいるときでも、とにかくとても居心地がよくて安心します。
わたしはほんとうに最近レコードを買いはじめたので、どれを買ったらいいのかわからないことがしょっちゅうあって、この状態でこの値段ならちょっと高い、とか、あまりむずかしいことはよくわからないのですが、なんというかそういうところも含めてココナッツはやさしくて、そういう、なんにもわからないわたしをあたたかく受けいれてくれて、レジに持っていくと「これいいよね」って言ってくれたり、いろいろと親切に教えてくれたりするところがとてもわたしに合っているなと思います。
あとこれは最近気づいて、すんごください例えになってしまって恐縮なのですが、ココナッツディスクでレコードを買うということは、「生産者の顔が見える野菜」を買うのに似ているな、と思います。生産者の顔写真が、ほうれん草の袋に貼ってある、あれです。あれには、とにかく誰がどんなふうに作った野菜なのかわからないよりも、こんな人が作ってるのかとわかって、なんかいい人そうだし安心な気がする、と思わせる効果があって、だから、まあほうれん草はどこにでも売っていて、ほかにもっと安いのもあるだろうけど、なんだか安心だな、という心理的な役割をほんのり果たしていると思うのですが、ココナッツでレコードを買うというのもなんとなくそれに似ていて、もちろんほかの中古レコード屋さんに行けば、おんなじのあるかもしれないけれど、なんか矢島さんが、ここにででーんと出しているのとか、中川さんがインスタで推しているのとかをみて、あの、好きなもののことを全力で愛している、矢島さんとか中川さんがよいと言っているのだからきっとよい、だからココナッツで買うのがよいのではないか、という気になる。わたしにはまだレコードを選ぶ審美眼がないけれど、誰が、こういうわけで、これはよい商品だと推しているのかちゃんとわかって、だから、新譜をぱっと取って買っても、ジャケを気分で選んで買っても、どれを買ってもきっと間違いなくって、安心というのは、心づよいです。なんだか全然うまいことを言えなくて申し訳ないのですが、そういうことなので、どうにか、少しだけでも伝わるでしょうか。

ほんとうに一方的なきもちでここまで書いてきて、次にお店に行くのがはずかしいですが、今日ココ池行っておいてよかったです。
いつも、ほんとうにお世話になっています。ありがとうございます。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。だいすきです。

(追伸)ココナッツポイントカード、今年7枚目に突入しました。うれしいです。

日記をはじめます

昨年秋ごろから、ほそぼそとtwitterにて音楽のこと、本のことなどをつぶやいておりましたが、こちらでもぽつぽつとなにか書いていきます。


はてなブログの使い方、ぜんぜんわからずべたべたと打ってしまって恐縮ですが、つるつると読んでいただけるとさいわいです。


大学生のころアルバイトを始めて、大人と一緒に働きはじめたときに、「大人になるというのは、体じゅうの感覚が閉じていくことだな」と思うようになりました。

ここは仕事場、しんけんな戦いの場、むげに怒られたり冷たくされたり、不条理だなと思う出来事があって、最初はすべて全身で受けとめていたんですが、だんだんそうもいかないことが増えてきたとき、それまで何事にもぷるぷるの感性をもって、うれしい、かなしい、心こなごなになってしまいそうにつらい、などとわあわあ反応していたわけですが、そうもしていたら体がもたない、なにせ大人になると、感じざるをえないことが格段に増えすぎる、いろいろな出来事の矢印がこちらを指している、そのことに気づいたとき、体じゅうにびっしりある、出来事をわたしの中に受け入れる、いわば感覚の口がひとつまたひとつとぴたぴた閉じていって、もう矢が飛んできてもぴんとはじき返してしまうといったあんばいになったのです。


わたし、このままなんにも感知できなくなって、ボンヤリ生きていくのか?ボヨンボヨンなどと、かすみ目で過ごしていたのですが、しかし、社会人になってみるとおやおや、いままで触ったことのない口が、わき腹にできている、ぽかんと口を開けて待っている、あれあれ手首にも足首にもという調子で、なんでかは今のところわかりませんが新たな受け入れ口が増えてきた。

そこへびゅんと飛びこんできたのが、みずみずしい音楽、滾るライブ、そしてそしてたくさんの新たに出会ったみなさんなのです、そしてみなさんが、わたしの体に新しく、もうほとんど風穴を開けて、それを毎日ぐりぐりと広げてくださっています。


こどものころの、なんでもきらきらと見えた目が、なんにでもふるふるとふるえた胸がまた手に入るなら、ほしいと思う。けれどわたしは、こどものころにはなかった感じ方を手に入れた。いまはそれを抱きしめて、ずんずん歩いていこう、そういう気持ちで、感じたことを少しずつ表していきたいと思っています。


どうぞよろしくお願いします。