磨硝子日記

すりがらすのブログ

最近のこと

そろそろ何か書けることはないかとカメラロールを繰ってみたものの、このあいだ初めて行った焼肉ライクのミスジ&ハラミセット(200g)、新大久保で遭遇したじゃがいもを入れ忘れているカムジャタン小宮山雄飛がおすすめしていたので食べた冷麺と炭火焼き肉のセットなどしかなかった。平日は、朝目覚めてから、夜眠るまで、食事、入浴、スキンケアやメイクなど身支度を整える時間、そして睡眠を除いた、活動時間のほとんどを仕事にあてている。仕事をしている時間は長いけれど、楽しい。けれども、忙しすぎて、ままならなくなって泣いていることもしょっちゅうある。すきな人が心配してくれたのに、逆ギレして連絡を絶ってみたり、またあまのじゃくなことをいってみたりもした。また余力があれば、休日にはできるだけ着飾って、すきなメイクをして街へ出る。誰にも会わないことのほうが多いけれど、会いたかった人に会えてうれしい日は、一晩中そのことばかりを反芻して、はやくまた会いたいとおもっているうちに眠り、また仕事をして終わる日を迎える。

ライブへ行くことも少なくなった。以前は大げさでもなく毎週のように行っていたものが、今では月に1〜2度ほどになった。コロナ禍を経て、会えなくなってしまった人も多くて寂しさもあるけれど、できるだけ、興味をもってすきだと感じていることには近づいていたいし、すきだということも表明していたいし、すきなものが取り持ってくれた人と響きあいたい。


3月23日、日本橋鈴木茂のライブで笹倉さんの演奏を聴く。そのライブにはママレイド・ラグの田中さんも出演していて、笹倉さんと田中さんの共演に、すでに今年いちばんの胸のときめきを感じたというのはさておき、笹倉さんの作品は折に触れて聴いていて、やわらかくもしなやかな歌声やうつくしく調和した演奏はいうまでもないのだけれど、ご本人のお人柄も、音楽への畏怖と探究心を持ち合わせた姿勢と、猫のトトちゃんの前になると急にふにゃふにゃのお父ちゃんになるところがなんともたまらなく魅力的で、だいすきなのである。
この日のライブは、『Velvet Motel』『スピーチ・バルーン』『幸せな結末』などを歌ってくれて、演奏がすばらしいのはもちろんなのだけれど、ライブのあいだ、笹倉さんが歌うたびに、なんだかじわじわと安心感がわいて、それがどんどん増えていくような心地がした。
日々いろいろな曲を聴くけれど、折に触れて、笹倉さんを聴きたいとおもうことがある。なにか得体のしれない、尊い成分を求めている。それは、山を登ったり、川を眺めたりするのに似ている気がしている。季節がすぎれば、木は枝を広げ、葉を落とし、山は形を変えて、水は流れつづけても、そこにある山や川をそれとして見ては、ああ、いいなあとしみじみとおもう、そんな体験だ。月日が経っても、笹倉さんを笹倉さんらしくしているものが変わらずにあると信じて惹かれている。わたしは、スポットライトの下でひかえめにふるまう笹倉さんをみながら、その演奏やお人柄と、その空間に満ちている震えのようなものに、静かに、それとはなしに、でも確かに慰められて、自分を自分らしく保てているのかもしれないとおもった。

4月6日、下北沢。THREEへ行くのは何年ぶりだろうか、生活の設計の企画ライブを見る。今推しているバンドは何ですかと訊かれたら、必ず答えているのは「砂の壁」だ。ライブで見ると演奏が本当に巧くて、4人のバランス感がありながら個性が光り、タイトなリズム感の曲からメロウでレイドバックな曲までどんな曲も演奏できて、こんな曲もレパートリーにあるのかとびっくりする、いつ見ても新鮮な驚きをくれるバンドである。数日前に配信された『Tower』という新曲も、つやのあるギターの音色に、体温低めなキーボードとドラム、乾いた歌声がかっこいいのだが、ライブでは高揚感を増して聴こえたのもまたよかった。
それから、スカートの澤部さんを久しぶりにライブで見て、プロフェッショナルさと包容力、懐の深さを噛みしめた。20代のころ、聴くたびに苦しかったスカートの曲は、あまり聴いていなかったはずなのに、全部歌えるし、しっていて、今のわたしにはとてもすんなりと染みこむように入ってくるのだった。それから数日間、スカートの音源をApple Musicに入れまくり、なかでもよく『ODD TAXI』を聴いていた。さっわべっさわべさっわべ…と口ずさむたびに、少しだけ軽やかな気もちになれる。

生活の設計は、昨年の春に出会ってから、ライブへ行くのがとても楽しみなバンドだ。
ギターボーカルの大塚真太朗は、とにかくわたしとは真逆なところばかりで、ネアカで、友達がたくさんいて、人づきあいや飲み会での立ち振る舞いがたぶん上手くて、いつでもきらきら、のびのびとしているように見える。昨年、アルバムのレコ発ライブには、彼の学生時代の友達とおぼしき若者たちがわんさか集まり、さながら同窓会のような雰囲気になっているのを見て、卒業して10年以上も経つのに、こんなにもたくさんの友達とつながり、ライブに呼べば来てくれるような関係性を保っていることに驚嘆した。人並みはずれた社交性の高さで、彼のInstagramをフォローしたら、ブログ読みました!とDMが送られてきたのには、わたしにはどんな鍛錬を積んでもできないとおもった。たとえば真太朗くんが学生時代にわたしと同じクラスにいたとしたら、彼はクラスの人気者で、生徒会長をしていて、わたしは教室の後ろの席でひとりでお弁当を食べているようなイメージだ。彼とわたしは生きていく世界がちがう、くらいにおもっているのだけれど、それでも彼を気になるのは、『季節のつかまえ方』というアルバムを聴いていて、放課後のある時、彼がぱさっと鞄から取り出した文庫本が、わたしのすきな作品だった、というようなことが起こったと確信したからだ。
相容れないとおもう彼が、きっと同じことを似たようにすきでいる、ちょっと明るくて、爽やかで、この子みたいにはなれないけれど、同じような音楽に憧れているとしってからというもの、彼はわたしにとって、ひたすらに気になって仕方がない存在になった。小沢健二 meets アル・クーパーな『春にして君と離れ』のアウトロで、Oh! Jolie!と照れもせず叫んでしまう愛くるしさに、たまらず参ってしまう。新曲で、ファミレスのポテトを超食べたいと臆せず歌う姿に、わたしにもそんな日があると、うつむきながらうなずいてしまう。いつも目が合うたびに、黒目の奥まで光が通り抜けているような生気を感じて、自分の底しれない暗さが後ろめたくなってしまう。でも、それだからこそ、彼こそ仲間を連れて、ライトを浴びるのがよく似合うとおもう。これからも後ろの席で、じっと見守っているから、少しだけ通じあえるところを見つけられたことを、ひそかに喜んでいるから、だからずっと、まっすぐそのままでいてほしい。まぶしい君を、遠くから眺めていたいのだ。