磨硝子日記

すりがらすのブログ

本についてかんがえていること

このところとみに本を読めるようになった。

去年あたりからささいなことに気が散って、集中して活字を追うのがむずかしくなり、ページに目をおとせば視線が文字の上をつるつるとすべってしまって、内容が頭にはいってこないことがままあった。
趣味は、と訊かれれば「読書です」と答えていたのにこの体たらく、とかなしくなっていたけれど、年明けからはゆったりとした心もちをとりもどし、いまでは視線は活字をつぶさにとらえられるまでになっている。


大学時代に書店でアルバイトをしていた。

大学にはいったら本屋かCD屋(当時は「レコード屋」という単語を知らなかった)でアルバイトしようと決めていて、近所の書店とCDショップに応募を検討していたのだけど、CDショップには金髪のいかつい店員さんがいるという理由で、書店のほうに応募して、そのまま4年間身をやつした。

いまおもえば、CDショップのほうにいっていたらほんとうに人生がちがっただろうなあとおもうし、きっといま聴いていないような音楽に出会っていただろうとおもうのだけど、書店では、わたしにいま聴いているような音楽を教えてくれた友達に出会ったし、結果的にはよかったのかなとおもう。ちなみにのちにわかったことだけど金髪の店員さんは心やさしくてとてもいい人だった。



わたしが書店で働きはじめた理由は至極単純で、本がすきだったからである。

ただ「本がすき」というのにもいろいろあって、たとえば、本を「読む」のがすきな人もいるし、実体としての「本そのもの」がすきという人もいるとおもうけれど、わたしは後者のほうで、まずもって「本そのもの」がすきなのであった。

大きさ、重さ、厚み、表紙のデザイン、文字のかたち、さまざまな紙の手ざわりや透け具合、印刷の色や凹凸、栞紐の色など、ある本のために作り手たちの叡智とおもいの丈が結集したさまを手にとってあじわえるというのはとても趣があることだとおもっている。


以前、スタイリストであり、おすすめ本を紹介する連載をもつほどの本好きであることでも有名な伊賀大介氏のトークショーに行ったとき、伊賀さんが「栞紐の色」について「本を読んでいるときに栞紐が何色か予想していて、読みすすめて栞紐がでてきたときに、その色が予想どおりだとテンションあがる。この本は黄色だな~っておもいながら読んでいくと、ほらやっぱり黄色だった~みたいな!」というようなことを喜々として話していて、その並々ならぬ愛のこもった発言に心をわしづかみにされたのであったが、記憶をたどってみても、小学生のとき、クラスの物静かな男の子が読んでいた『ハリー・ポッター』のオレンジ色の栞紐が妙に目に焼きついているし(1冊読むのに時間がかかるのでだんだん読んでいるうちに栞紐がほつれてきて、椅子のうしろにつけている防災ずきんのカバーのなかからとりだすたびに、みつあみのほどきかけみたいになっていたことも覚えているし)、いまでも本を買ったらまずカバーをはずして表紙、裏表紙、背表紙のデザインをみたり、帯のコピーをくまなく読んだりするのが常であって、モノとしての本がすきなのは、ずっとかわっていない。



もちろん、本を「読む」のもすきだ。とはいっても、いままで「この人は文字どおりの本の虫だなあ」とおもう人にたくさん出会ってきたから、その人たちにくらべれば、わたしは本を「読む」ことについてはかなわないとおもっている。

大学生のときにお付き合いしていた人は、外出するときにいつでも文庫を携帯していて(ときどきハードカバーの文芸書のときもあった、おもくなかったのか)、たとえば駅のホームで電車を待ちながら話しているときに横をむいたら読んでいる、料理を注文してメニューを閉じるやいなや手元の文庫を開くというようなあんばいであった。
彼の部屋は壁一面が本棚で、文芸書の新刊から名作コミックまでが色とりどりの背表紙をこちらへむけてずらりとならび、たいへん壮観であった。整然とならんだ本のなかから、ときどき、読みたい本を抜きとって読んだ。時間とお金さえあれば本を買いにいって読み、本棚におさめるという生活をしていた彼を、わたしはとてもすきだった。

自分以外の人がどういうふうに本を読んでいるのかをしると、なるほどそうやって本を選んでいるのかと感心することもあったし、どこからみつけてきたんだその本は、という本でも、その人の生活のなかでは出会うべくして出会っている本だったりするからおもしろい。

ツイッターやインスタでフォローしているアカウントひとつで、身体のまわりをかすめていく情報はまるでちがうくらいなのだから、住んでいる場所も、起きる時間も寝る時間も、食べるものの好みも、すきなテレビもラジオもちがうなら、本の好みも、本の存在感もぜんぜんちがうというのは自然なことだ。

彼に出会ってから、わたしは本を「読む」ことについてはそれほど得意ではないとおもうようになった。けれども、わたしにとって本を読むことは必要なことだ。
「本は嗜好品だから衣食住に関係ない」という人もいるけれど、生活の余白をすきなものでできるだけうめておけば、時には毛布にくるまっているようにあたたかな心地にもなれるし、少しぐらいの空腹はしのげる。
日常生活なんて、衣食住にかかわるような「なくてはならないこと」よりも、「どうでもいいこと」を「どうにかしてゆたかなきもちですごすこと」が大切だ。だから本を読んでいる。



最近は、新刊書店でも、古書店でも、ほとんどなんにもしらない状態で、タイトルをみておもしろそうだとおもったものを買っている。すこしでも興味があって買ったものであれば、あまり好みではなくても、なにかしら、しることはある(「これは好みではない」ということだってわかる)。
ちなみに早川義夫は自らのことを「本を知らない」といっているけれど、素人のわたしからすればまったくそんなはずはないわけで、しかしながら、ある分野にくわしくなればなるほど、まだまだしらないことがおおいなあと気づける人でありたいし、しっていればしっているほどに、なんにもしらないんだなあと自分をいましめられる人でありたいとおもっている。本の世界は大海原、わたしはまだ波打ち際で貝殻をひろいあつめながら、まだ見ぬ地平線のむこうへ、闇につつまれた深海へ、おもいを馳せているにすぎないのだから。



そんなふうに途方もなくおおらかなかんがえへ漂着してしまったためか、なにを読んでもおもしろいし、どんどん読みすすめられる。最近買った&読んだ本、それぞれは脈絡がないようにみえるけれど、おもいがけなくどこかでつながったりするのだ、きっと。なるべく心をひらいて生きていきたいです。
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