磨硝子日記

すりがらすのブログ

シャムキャッツのこと・あとがき

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先日書いたシャムキャッツのブログにたくさんの方から反応をいただいた。自分のことを書いているのに、それを読んだ誰かの気もちを少しだけ動かすことができるというのは、本当に不思議なことだとおもう。Twitterのコメント、RT、DM、LINE、ブログのコメントで、たくさんの時間をかけておもいを伝えようとしてくださった方に感謝している。
正直なところ、1年半かかって書いたけれど、思い出の濃淡に偏りがありすぎて、まだまだ書きだしきれなかったことがあるような気がしていた。たとえば、最後の新木場STUDIO COASTでのライブのことは、まったく書いていなかったりする。確かに行ったし、Blu-rayも持っているのだけれど、それをまだ一度も再生していない。クラウドファンディングのリターンとして届いた時に中身をみて、それ以来そっとしまってある。そういえばあのライブの日、行こうかどうしようか迷って、でも行くかとおもいきって行ったのだった。しっている人にはおおかた会えた、そんな夜だった。また会いましょうともいわずに4人はステージの奥に戻っていった。大きなミラーボールに反射する光。あらためて記憶をなぞりながら、もう一度この日を体験してしまったら、終わりな気がして。いやもう何も終わらないのだけれど。

原稿は、書いたり消したりしていたというのもあるけれど、それにしたってこれまで書いたどんなブログよりも進まなかった。記憶から引きだせる思い出を語るのは簡単だったけれども、わたしは今、その思い出のことをどうふりかえっているのか、その思い出のなかにいるシャムキャッツは何だったのかというのを考えていたら、言葉に詰まってしまった。それから、どうしてこんなに気もちをあの日に置いたままにしているのかを考えていた。

そんな折だった。昨年の大晦日に、bjonsが解散するというしらせがあった。潮が引いていくような心地になった。わたしのすきなバンドはふたつとも解散してしまった。
「推しは推せるときに推せ」という言葉があるけれど、まさに言い得て妙であるとおもう。シャムキャッツもbjonsも、どちらもライブにはよく行ったとおもうし、推せるときに推していたという自負はある。だけれどもこれは、「推せるとき」のためにある言葉ではない。「推せなくなったとき」をしった人が、「まだ推せるとき」にある人に授けた言葉なのだ。今となっては、「推せるとき」のわたしに言いたい。その日は突然くる。何もしらずに推しているときがとにかく幸せであるのだと。

たとえばあなたの推しのバンドが解散した、グループを卒業した、活動を辞めた、もう推せなくなったとなれば、どう反応するだろうか。
わたしは「どうして解散するの」と言えなかったことが、いちばん苦しかった。

別に言っても全然何の問題もないとおもうのだ。ライブで「次が最後の曲です」と言われたら「エー!」と言うように、反射的に、解散しないで!と口をついて出てくるのは、ごく自然なことなのだろうとおもう。
でも、何も気にせずそう言うことはできなかった。きっと理由があるのだろう。解散しないでほしいという気もちを伝えることは、喜ばれないかもしれない。活動できなくなった理由は、バンドの外にあるのかもしれない。なぜか、自分の素直なおもいを、自分で理由をつけて押しこめていた。何もわからないのに。

それで、bjonsが解散したのをきっかけに、自分でほとんど隠していた気もちを書いて出さなければとおもった。まずは書きかけたシャムキャッツのことを。ただし、胸のなかで散らばったいろいろな思い出や、心配や、後悔や、やるせなさをすべてまとめて、ぐしゃぐしゃに丸めて、解散しないでほしい、と投げつけないようにしようとおもった。とにかく、その「解散しないでほしい」に丸めこまれたものを、つまびらかにしていこう。丸めた紙を広げ、しわを伸ばし、何が書きつけてあるのかを自分でも見つめたい。そんなふうにして何とか書き終えた。わたしはまだ、進めていないのだとわかった。それだけでよかった。

人生のなかで特にめまぐるしく、心と体のかたちを変えながらすごした月日を、シャムキャッツとbjonsを聴きながら過ごせたことが、わたしにとっては何よりもありがたかった。ほとんど恋をするように夢中になったから。あなたが心血注いだ作品を、わたしは一生懸命受けとめようとしている。楽しいときにも、つらいときにも聴いているし、そうして歳をとって、あなたの伝えたかったことや、考えたことも、これっぽっちもわかっていないかもしれないし、迷惑かもしれないけれど、どうしても惹かれる。そういうおもいでいたから、今も何でもないような顔をして、とてもさみしい。

ライブへ行く機会も本当に少なく、最近はどうにも音楽を聴くことすら少なくなって、わたしの生活はどうなっていくのだろうか、とおもう。それは趣味という文脈ではなくて、人生のことだ。まだしばらくは進めずに、ただひとりよがりな気もちでいる気がする。