磨硝子日記

すりがらすのブログ

おぼえている、わすれる

長い長い休みの残り香は早々に消えて、押しよせる業務、なにがしかの圧などに背中を押されながら金曜日にむかってとぼとぼと歩くようだったのに、今日は土曜日であるとわかった瞬間、ふと軽くなるような心地がするのはゲンキンなのだろうか。休日は掃除をしながら、なにかというとぱっと手にとるのは『POCKET MUSIC』だ。今年のツアーでは「土曜日の恋人」を聴けるだろうか、この曲を聴くたびにココナッツの放出でサンプルの7インチを買ったことをおもいだす。「POCKET MUSIC」を聴くたびにふつふつと湧きおこる、このなんともいえないサティスファイングな感覚はなんだろう。このうつくしくてたおやかなサックスは土岐さんだろうか。そうしてB面にたどりつくが、実は「シャンプー」がどうしても湿っぽくてきらいだ。そういう、ツイートするまでもないけれど、LINEで送るまでもないけれど、誰かにふと、あるいは誰もいなくても口にだして、その言葉がどう響くのかを確かめたいことが、この数年で体のなかにたまっているような気がする。たとえばライブの感想が、今食べたものについておもったことが、隣にいる人のささいなしぐさに苛立っていることが、どこからかやってきて水面ではじける泡のように、誰にも気づかれず、わたしにも記憶されることなく、なかったことになってしまうのかしら。

14歳ぐらいのころ、考えていることや身体的な感覚が、歳をとったらなくなっていく、あるいは変わっていくことを、無意識にとても恐れていた気がする。人一倍よく感じるこの心と体はどうなってしまうのか、実際に20歳をすぎて、社会人になって、いっそう外の世界と「わたし」を通りぬける道のような、穴のようなものが、どんどんふさがっていくので、怖かった。アルバイトをしていたころ社員さんに「大人になるってことは、閉じていくことだとおもっているんです」などとのたもうていたので、けっこう本気だったのだとおもう。じっさい、今のところその感覚はたしからしい。

24歳のとき、一度目の転職をした。その時はこの前の転職と比べものにならないほど、体を壊した。あの時会社を辞めていなかったらほんとうにどうなっていたかわからないくらいで、背中や腰が痛くて、頭が重くて、ふと気がつくととてもかなしくてみじめなおもいがした。とにかく夜ははやく寝たくて髪をどんどん短く切って耳にかからないくらいのベリーショートにしたり、メイクもほとんどワンパターンにしたり、なにかたのしいことがひとつでもあったのだろうかとおもってしまうくらいで、ときどきおもいだしては、舌を上顎をぐっと押しあてて、こみあげるものをおさえる。
そのころから、わたしが閉じていくことも必要だとおもうようになった。しかたなく。受けいれられないことばかりだったから。

それからどうにもならないようなことに胸を押しつぶされそうになったとき、それを少し自分の手で払うなり、体の上から退けるなりできるようになってきて、こうすればよかったのかと、頭と体におぼえさせるようになったのが最近だ。よくばりなことに、わすれたいことはわすれたいし、おぼえていたいことは、わすれそうになってしまうけど、気づかないうちにわすれるけれど、おぼえていたい。
ブログのなかに同じようなこと書いた回があったとおもって探してみたら、ちょうど5年前だった。やっぱりこの時の方がみずみずしいような気がしないだろうか。帰ってこい、もどってこいと、もういらない、もどらないをくりかえしている。
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