久しぶりに出社した日の帰り、錦糸町のタワレコで寿々木ここね「FEVER」を手にとった。ジャケットの写真がかわいくて、レジに持っていくのにちょっと緊張した。表題曲を推しが書いているから、推しのバンドが演奏しているからという下心なのでは、と申し訳なくおもいながら、特典(推しが書いた曲を推しのバンドが別バージョンで演奏しているから)もほしいのでなおさら後ろめたい。
ここねんさんのファンからしてみたら(わたしもファンです)、ファーストソロアルバムの1曲目がこの曲だというのはどんな意味をもつのだろう。アルバムをとおして聴いてみるとほんとうに色あざやかで七変化(6曲入り)の魅力があるけれど、そのなかでもここねんさんの私小説みたいな歌詞に、これこそがここねん、とおもうのだろうか。たぶん多くのここねんさんファンのみなさまとはちがう立ち位置からこの曲をみつめているのか、ツイッターだとおなじようなことをいっている人がみつけられない(「追いヒップ」に感銘を受けている人はけっこういる)。
表題曲を初めて聴いたとき、なんかもう、こういう曲があったら人生悪くないよな、みたいな気分までいけた。“掬われる”ようだ。この言葉をいうときの気もちをしっている、ぜんぶしっている。でもなんだか、そんなものは誰にもみつけられないうちに、心の隅のほうに追いやって、気にもしていないようにふるまっていた気がする。そうして胸のなかにもやもやと霧のようにたちこめていたいくつもの気もちをそれぞれぎゅっとかためて、ひとつずつ手に取れるようにしたみたいな歌詞だとおもった。自分でもかたちをとらえられなかった気もちを、こうかもね(よろしくどうぞ)ってみせられたようだ。わたしとは別のところにある曲なのに、勝手に、見透かされているようではずかしくなって、電車のなかで泣いた。それもみじめにおもえて、また泣いた。「可愛いだけじゃないのだと 気付かせてあげたい」、ここを通りすぎるたびに、胸がいっぱいになって涙がこぼれてしまう。わたしの人生、つまりそういうことだったのでは、みたいなおこがましい気もちにさえなる。
ここねんさんといえばステージにいてもインスタのなかでも、いつも自己肯定感にあふれていて、すきなものにかこまれていつもほんとうにいきいきとしていて、そういう自分を大切にするところがとてもすてきな人だなとおもう。誰かにかわいいとか、いいね!っておもわれるためじゃなくて、自分がそれをするのがすきだからやっているというのもすごくまぶしい。みていてうらやましくなるくらいにきらきらしていて、そうみえるのは、ライトを浴びているからではなくて、ここねんさんの額の汗が輝いているからで、外側からみえない魂のようなものがごうごう燃えているのが伝わるからなのだ。このアルバムもはじめからおわりまでここねんさんの自己愛がつまっていて、そういうアルバムの1曲目で、「子供でもないし 失くしたものもそれなりにあるの」とつぶやいたあと、つづけて「わたし、ねぇ今どんな顔? 拗らせて生きたいね」と大事そうに歌うので、おもわず鏡にうつる自分をみなおしてしまう。
それにしてもこの曲がはじめて披露されたのは去年の10月だそうで、冒頭のところはこの夏のことを言いあてるようで、もはやちょっとこわい。この春をくぐりぬけたわたしたちはめちゃくちゃに強くなっているはずだから、ちょっとつかれているけど、大切なものを抱きしめて、自分をかわいがって、たのしく生きていけたらいいよね。