磨硝子日記

すりがらすのブログ

山下達郎のツアーに行ってきた話 2022

6月17日、金曜日。それはまだ風が凪いでいたころ。わたしは3年ぶりに東京駅でのぞみの乗り場へ向かっていた。モバイルSuicaでは改札をそのまま突破できず窓口へいかなければならないことを初めてしったけれど、駅員のお兄さんはとてもやさしく、こんなやりとりを何度も繰り返し別の客にしているであろうにもかかわらずにこやかで、旅の足取りが軽くなる心地だった。いつもならチキン南蛮弁当みたいなものを買いたくなるところ、売り場で目に入ったがすぐに視線をそらして、脂質を気にするわたしは助六弁当とお茶を買い、1泊用のSaToAトートバッグにぱんぱんに詰まった荷物の上にほとんどそっとのせるだけで、バッグを肩にかけなおしてエスカレーターを上った。梅雨明け前だったからか、ホームを通りぬける風はたっぷりの湿気をたたえていた。マスクをし、ずんずんと自由席乗り場へ歩くには、日除けに着てきた長袖だと暑い。それでも新しくおろした空色のギンガムチェックのワンピースがゆれるたびに、むずかしいことをひとつひとつここへ置いていけるのだとおもった。11時30分ごろだった。

熱海まで弁当を開かないでおいた。平日の午前中だったが、金曜日だからなのか混んでいて、新横浜あたりではほとんど空席がなかった。隣では学生が黙々と数学Ⅲの問題集を解いている。わたしはダウンロードしておいた韓国ドラマ『ユミの細胞たち』を観ていた。5年ほど前、月に1度大阪へ出張に行っていたことがあって、そのときには窓から見える町がとにかくおもしろくて仕方がなかったのだけれど、久しぶりの旅は意外なほどに特別ではない。それでも東京をはなれるにつれて徐々に日差しが強くなってきたころ、ようやく実感がわいてきた。座席のテーブルの上で会社携帯の通知が立ちあがってくる。けれども今日は気にしなくていい。

時折うとうとしていたら、隣の学生が座席に頭の後ろをつけたまま、わたしのiPhoneの画面に視線を向けていた。問題集を解くのにくたびれたのか、実写とアニメがミックスされたドラマは、たしかに隣の人が観ていたら気になるものだろう。先に彼は降りて、わたしはほどなくして福山に到着した。

よく晴れていた。ホームからは福山城が見え、改札をでて仰ぎみると堂々たる天守閣がある。器用に旅をする友人におすすめされた駅前のホテルに着くと、16時過ぎだった。バッグの中身を軽くし、駅のアトレに入っていたキャンドゥでクラッカーを買う。前回はうまく鳴らせるか自信がなく、結局手ぶらのまま会場へ行ったが、今回はあれをやってみたいの一心で、3つ入りかつ中身がたくさん飛び出さなそうなものを選んだ。店内の有線放送だろうか、「GO GO サマー!」が流れてきて、KARAがすきだったといっていた人のことをおもいだす。後で連絡したいとおもいながら、駅を背に歩いた。



会場のふくやま芸術文化ホール リーデンローズは、オーケストラのコンサートも行われるようなホールで、外観からもあれだとわかるくらい目立つ。7月には純烈が来るのらしい、などとポスターをみながら入場を待っていると、会社携帯に、急ぎの案件が2つあるのですがどうしましょうかという連絡が入る。良いしらせだった。その場でメールをし、エントランスの前で電話をかけて少し話をした。不思議なことにこの日から、わたしは仕事面でおどろくほどにツイている。なにかしらの良い気をもって帰ってきたのだと信じている。

連絡を終えて18時すぎに入場し、急いでアルバムの先行予約に並んだ。発売前の4公演は直筆サインがもらえるのらしく、LPのほうはタワレコオンラインで予約していたが、CDはこちらに残しておいた。送り状に住所を書いていると、前に並んでいる人が世田谷区の住所を書いていて、なんだ、遠征の人いるじゃないかとひとりごちる。今おもえば、東京で離れて暮らす人に送ってあげるとかそういうことも考えられるのだけれど、このご時世に広島までライブを観にきたということがどうにも後ろめたく、それは開演直前になっても変わらなかったので、少しでも同じように会場へ来ている人を探していたのだ。

なぜかわたしがとても緊張した。3階席の5列目で、正直なところ後ろも後ろのほうの席だったが、かえってすり鉢状の座席から見下ろすステージはよく見えるような気がした。18時30分の開演を前に、あそこには誰がきて、あの台から声を張りあげて、などと想像が駆け巡り、会場を柔らかく包むようなドゥーワップがほとんど耳に入らないほど、ドキドキしていた。そうだ、クラッカーをひとつ袋から出しておかなければと、トートバッグのいちばん口に近いところにクラッカーを置いた。アカペラが流れた。

真夏の太陽を浴びた柑橘、あるいはよく熟れた柿のような色のシャツを着た達郎さんがステージに出てきた。せっかちにギターをかけて、BGMが消えきらないうちに演奏をはじめる。稲妻が走るようだった。胸がいっぱいになった。きらきらとまぶしく、つやつやと弾けるような音が弧を描いて飛んでくる。世界中どこの夜を探しても見つけられないような、ここにしかないうつくしい光景。まるでこの2年あまりを耐え忍んできたわたしたちが祝福されているようにさえもおもえて、じわっと涙がこみあげてきた。観たかった、聴きたかった、会いたかったのはこれだとおもった。

ライブはつつがなく進んだ。だいすきな『POCKET MUSIC』のなかでも、どうしても湿っぽくてきらいだった「シャンプー」を、達郎さんがキーボードで演奏する場面があった。そんなふうに弾いたからってだまされないとおもった。髪の毛の歌には一家言ある。誰かに話してやろうとおもいながら、会場の静かな視線を一身に集める達郎さんを眺めていた。

その時は急にやってくる。イントロクイズでも始まったのかといわんばかりの勢いで皆がスッと立ちあがった。絶対に前半の方は誰も真剣に聴いていない(とおもう)。なぜなら絶好のタイミングを待って、そわそわしている人ばかりだからだ。わたしもそのひとりだ。今だ、とおもい、右手で強く紐を引っぱった瞬間、四方八方からパパパパンッと破裂する音が鳴る。左手で持つ筒が熱い。火薬の焦げるにおいが一面に広がり、それに気を取られてあまりよく聴こえなかったが、達郎さんは「今日はもう終わり〜」と言っていたような気がする。

この日は2公演目ということもあってか、まだ慣れていないと繰り返し言っていたけれど、それにしては饒舌だった。前日に『BRUTUS』で読んだことをほとんど一言一句違わずではないかとおもうほど正確に話していた。来年キャリア50周年だそうだ。子どものころ、きっとよくわからないうちから親しんでいた達郎さんの音楽を間近で聴いている、その因果におかしさとありがたみをおぼえながら、「ええお客や」を3回繰りだして上機嫌そうな達郎さんをずっと観ていたかった。

ホテルに帰ってきてから気づいたSparkling Pop


翌朝、初めて見る番組をつけながら荷物をまとめた。直筆サイン色紙が折れそうで心配だ。ナイキのエアリフトを履いて、福山城へ歩いた。天守閣は工事中だったけれど、前日に続いてよく晴れて気持ちがよかった。階段を下りているとマスク越しにもわかる甘い香りがただよってきて、生垣の花に鼻を近づけてみるとそれだった。わたしの様子を見た人が、向かいから歩いてきて同じように花の香りをかいだ。

福山駅周辺には博物館や美術館が集まっている。わたしはふくやま文学館と広島県立歴史博物館へ行った。ふくやま文学館ではリラックマうさぎのモフィ、おふとんさんなどの生みの親であるコンドウアキさんの作品展が開催中で、リラックマを愛し、就職活動でサンエックス株式会社の面接を受けたこともあるわたしとしては見逃せないイベントである。館内では主に原画が展示されており、キャラクターの絵本だけでなくエッセイや教科書の表紙まであったので、目を皿にして見た。感想を語りあえる人が誰もいないので、湧きあがる感想が喉から出てこないように押さえこむ。会場限定グッズを端から端まで買いたかったが、荷物を増やしたくないので断念し、歴史博物館へ向かう。

博物館から出て、行くと決めていたミールスの店へ歩いた。駅とリーデンローズの間あたりにあるので、前の日にライブへむかうのと同じ道を通って、なるべく記憶をなぞった。住宅街に黄色い屋根の店を見つける。
実山椒とチキンのミールスにワダをつけてもらった。優しく繊細な味の中に山椒がピリッと効いて、疲れた体にしみる。

なぜ横向きに撮らないのか

帰り際、お店の方と話がしたくて、東京から来たんです、と言いだしてみる。どうして福山へと聞かれたので、昨日そこで山下達郎のライブを観に、というと、なんとお店の方のご家族も観にいっていたのだと教えてくれた。1階席の5列目だったと聞いて、そこから見えるステージを想像した。また来たい、次はいつ来られるだろうかとおもいながら、福山駅へ戻る。週明けに会う人たちのことをおもいうかべ、その数だけもみじ饅頭をひとしきり買って新幹線に乗りこむ。さっきまでのからりと晴れた空はまぼろしだったのか、旅の記憶を洗い流すような雨に追われて、東京へ帰った。

おぼえている、わすれる

長い長い休みの残り香は早々に消えて、押しよせる業務、なにがしかの圧などに背中を押されながら金曜日にむかってとぼとぼと歩くようだったのに、今日は土曜日であるとわかった瞬間、ふと軽くなるような心地がするのはゲンキンなのだろうか。休日は掃除をしながら、なにかというとぱっと手にとるのは『POCKET MUSIC』だ。今年のツアーでは「土曜日の恋人」を聴けるだろうか、この曲を聴くたびにココナッツの放出でサンプルの7インチを買ったことをおもいだす。「POCKET MUSIC」を聴くたびにふつふつと湧きおこる、このなんともいえないサティスファイングな感覚はなんだろう。このうつくしくてたおやかなサックスは土岐さんだろうか。そうしてB面にたどりつくが、実は「シャンプー」がどうしても湿っぽくてきらいだ。そういう、ツイートするまでもないけれど、LINEで送るまでもないけれど、誰かにふと、あるいは誰もいなくても口にだして、その言葉がどう響くのかを確かめたいことが、この数年で体のなかにたまっているような気がする。たとえばライブの感想が、今食べたものについておもったことが、隣にいる人のささいなしぐさに苛立っていることが、どこからかやってきて水面ではじける泡のように、誰にも気づかれず、わたしにも記憶されることなく、なかったことになってしまうのかしら。

14歳ぐらいのころ、考えていることや身体的な感覚が、歳をとったらなくなっていく、あるいは変わっていくことを、無意識にとても恐れていた気がする。人一倍よく感じるこの心と体はどうなってしまうのか、実際に20歳をすぎて、社会人になって、いっそう外の世界と「わたし」を通りぬける道のような、穴のようなものが、どんどんふさがっていくので、怖かった。アルバイトをしていたころ社員さんに「大人になるってことは、閉じていくことだとおもっているんです」などとのたもうていたので、けっこう本気だったのだとおもう。じっさい、今のところその感覚はたしからしい。

24歳のとき、一度目の転職をした。その時はこの前の転職と比べものにならないほど、体を壊した。あの時会社を辞めていなかったらほんとうにどうなっていたかわからないくらいで、背中や腰が痛くて、頭が重くて、ふと気がつくととてもかなしくてみじめなおもいがした。とにかく夜ははやく寝たくて髪をどんどん短く切って耳にかからないくらいのベリーショートにしたり、メイクもほとんどワンパターンにしたり、なにかたのしいことがひとつでもあったのだろうかとおもってしまうくらいで、ときどきおもいだしては、舌を上顎をぐっと押しあてて、こみあげるものをおさえる。
そのころから、わたしが閉じていくことも必要だとおもうようになった。しかたなく。受けいれられないことばかりだったから。

それからどうにもならないようなことに胸を押しつぶされそうになったとき、それを少し自分の手で払うなり、体の上から退けるなりできるようになってきて、こうすればよかったのかと、頭と体におぼえさせるようになったのが最近だ。よくばりなことに、わすれたいことはわすれたいし、おぼえていたいことは、わすれそうになってしまうけど、気づかないうちにわすれるけれど、おぼえていたい。
ブログのなかに同じようなこと書いた回があったとおもって探してみたら、ちょうど5年前だった。やっぱりこの時の方がみずみずしいような気がしないだろうか。帰ってこい、もどってこいと、もういらない、もどらないをくりかえしている。
slglssss.hatenadiary.jp

5月のはじめのこと

5月2日、リ・ファンデのライブへ行った。リーくんがずっと対バンしたいといっていたSCOOBIE DOとの共演の日だ。『SHINKIROU』というアルバムのリリースからしばらくたって、やっとこさ大きな音でバンドの演奏を聴くことができて、胸のすくおもいだった。
リーくんが海のみえる街に暮らしはじめてからというもの、ふらっと会うこともなかなかなくなり、再会するたびに必ず、仕事忙しい?元気だった?と確かめあってしまう。彼は東京を出るときに迷いを振りはらったのかもしれないとおもうほど、どんどんすっきりとした佇まいになっていて、いつも次に会うのが楽しみになっている。ステージの上にいるミュージシャンとしても、友人としても。
アンコールではコヤマシュウが、リーくんと一緒に「熱風の急襲」を歌っていた。リーくんとは出会って数年なのに、12、3年の仲のような気がしているんだとシュウさんが話しているとき、いえいえ、とか、そういう謙遜した様子ではなくて、ただマスクの下でほほえんだようにみえたリーくんは、落ちついていてとてもかっこよかった。久しぶりのFEVERのフロアの隅で柱にもたれながら、しばらくライブをみていて声をだしたり手をあげたりしていないと、こうも体が動かないものかと不思議だった。スクービーのファンの皆さんがおもいおもいに踊るのをみて、気後れしたけれど、うらやましかった。


5月4日、六本木のグランドハイアットで中華のオーダービュッフェというのに行った。今年になってはじめて感じた、まぶしくて暑い陽ざしの日だった。ホテルに泊まっているのであろう、フロアをゆったりと歩く子供連れの家族、友人同士の集まりをみながら、親友とわたしは、偶然とおされた半個室で小一時間、ウェイターを呼びつけては、あれやこれやと飲茶を頼み、食べた。個室の壁の一面は3メートルほど高さのある鏡になっていて、ばかでかい鏡に、久しぶりに浮かれている自分の姿、服装、そしてまたにやりと笑う表情などをみて、場違いなところへきてしまったなとおもいながら、次々と運ばれてくるひとくちサイズの料理を残さず平らげた。
食べものの写真を撮るのがどうも下手くそだ。決してiPhoneのせいでも、お店の照明のせいでもなく、むろん盛りつけのせいでもなく、なんだかただテーブルに料理が置いてあるだけにみえてしまう。そのためか、またそのためもあるし、単に撮るのを忘れて食べてしまうのもあって、この時の料理の写真も1枚しかない。それも、全然おいしそうにはみえないものだ。
濃くもなく、油っこくもなく、繊細で、チャーハンの米のほどよい硬さにまで気配りの行き届いた料理を、ぽつぽつと、おいしいね、これはこうで、といいながら食べている間、ハイアットの中庭をぼおっとみやり、高級そうな食器や繊細な模様の施された小物のある店内とは対照的に、吹き抜けの屋根に向かって力強く伸びたビルの骨組みが目に入り、束の間、外界から切り離されたような気もちにさえなる。とびきりおいしくてまた行きたいというわけでもなかったけれど、日常の中で宙に浮いたようなあの空間を、また体験したくなる日がくるのかもしれない。ここではないどこかででも。


5月8日、神保町試聴室のライブへ行った。もともと2年前の5月に企画されていて、その後7月に延期され、それも中止になり、今回やっと実施になった。わたしはその3回ともに、予約メールを送っている。bjonsが出演するライブだったから。

今泉さんの演奏はとてもすきなのだが、ずっとバンドでライブをしてきたからなのか、ひとりで椅子に腰かけてギターを構えた姿がなんだか心細そうなので、みているこちらもじっと見守ってしまう。試聴室のような会場で、時々すぐそこにある客席をちらっとみながら歌うので、目のやり場にとても困る。困った挙句、わたしは歯並びをみることにした。子供のころから歯列矯正をしていて、最近もまた再度の治療をしていたので、人の歯並びをみているのは飽きない。
SAKA-SAMAのセルフカバーをずっと聴いてみたいとおもっていた。ご本人たちが歌うよりもずっといじらしかった。出演されていた方やお客さんたちが、「空耳かもしれない」がよかった、ほんとうによかったと繰り返しいうのを、耳をそばだててきいた。勝手に、とても嬉しかった。bjonsの曲を歌うとき、彼はメインボーカルを歌うので、わたしはみんなのコーラスを頭のなかで再生する。一瞬の悲しさが走るけれど、そのうちなんともおもわなくなるのかしら。

それから、今泉さんはbjonsの前のバンドの曲もやっている。このバンドのことを、以前からしっていたし、10年以上前から更新が止まっているバンドのオフィシャルサイトもみて、ブログも全部読んだし、ユニオンのサイトでアルバム音源を試聴できることもしっていた。なんならユニオンとかレコード屋さんに行ったら、毎回ジャパニーズのインディーのカ行のチェックをしていたくらいだ。けれどもそこに運よくささっていることはなくて、もうこのアルバムの曲を聴くことはできないのだとほんとうに諦めて、考えないようにしていた。
前回、はじめて弾き語りのライブをみに行ったとき、ユニオンの試聴サイトで30秒だけ聴いたことのある曲を、目の前で歌うので驚いてしまった。この曲レパートリーに入っているのかよ!
「君のシルエットが 夜に溶けて」などと歌うので、15年前に、今のわたしよりも若かったこの人、何を考えていたのだろうかといつも、歌がすすんでも取り残されてしまうのだけれど、今ならサビのあたまで「君の」とか言うんだろうか、言わないんじゃないだろうか、どっちでもいいけれどさ。
帰りに、話したかったことをどうにかひとつでも多く話して帰ろうと、なぜだかこの日は頑張ってたくさん話して出てきた。話しているときに、ひとつぽろっと言ってくれたなかに、そのときはそれほど特段の印象を持たなかったけれど、あとでおもいだして、なんだかこの数ヶ月のことをすべて肯定してくれるようなことを言ってくれていたんじゃないかというものがあって、その言葉がぐわぐわと頭のなかに響いて、ときどき反芻している。

同じ日に出演していた、サボテンネオンハウスというバンドをみていたら、このバンドをきっとすきな人たちのことが何人もおもい浮かんだので、すぐに連絡をした。

シャムキャッツのこと・あとがき

slglssss.hatenadiary.jp
先日書いたシャムキャッツのブログにたくさんの方から反応をいただいた。自分のことを書いているのに、それを読んだ誰かの気もちを少しだけ動かすことができるというのは、本当に不思議なことだとおもう。Twitterのコメント、RT、DM、LINE、ブログのコメントで、たくさんの時間をかけておもいを伝えようとしてくださった方に感謝している。
正直なところ、1年半かかって書いたけれど、思い出の濃淡に偏りがありすぎて、まだまだ書きだしきれなかったことがあるような気がしていた。たとえば、最後の新木場STUDIO COASTでのライブのことは、まったく書いていなかったりする。確かに行ったし、Blu-rayも持っているのだけれど、それをまだ一度も再生していない。クラウドファンディングのリターンとして届いた時に中身をみて、それ以来そっとしまってある。そういえばあのライブの日、行こうかどうしようか迷って、でも行くかとおもいきって行ったのだった。しっている人にはおおかた会えた、そんな夜だった。また会いましょうともいわずに4人はステージの奥に戻っていった。大きなミラーボールに反射する光。あらためて記憶をなぞりながら、もう一度この日を体験してしまったら、終わりな気がして。いやもう何も終わらないのだけれど。

原稿は、書いたり消したりしていたというのもあるけれど、それにしたってこれまで書いたどんなブログよりも進まなかった。記憶から引きだせる思い出を語るのは簡単だったけれども、わたしは今、その思い出のことをどうふりかえっているのか、その思い出のなかにいるシャムキャッツは何だったのかというのを考えていたら、言葉に詰まってしまった。それから、どうしてこんなに気もちをあの日に置いたままにしているのかを考えていた。

そんな折だった。昨年の大晦日に、bjonsが解散するというしらせがあった。潮が引いていくような心地になった。わたしのすきなバンドはふたつとも解散してしまった。
「推しは推せるときに推せ」という言葉があるけれど、まさに言い得て妙であるとおもう。シャムキャッツもbjonsも、どちらもライブにはよく行ったとおもうし、推せるときに推していたという自負はある。だけれどもこれは、「推せるとき」のためにある言葉ではない。「推せなくなったとき」をしった人が、「まだ推せるとき」にある人に授けた言葉なのだ。今となっては、「推せるとき」のわたしに言いたい。その日は突然くる。何もしらずに推しているときがとにかく幸せであるのだと。

たとえばあなたの推しのバンドが解散した、グループを卒業した、活動を辞めた、もう推せなくなったとなれば、どう反応するだろうか。
わたしは「どうして解散するの」と言えなかったことが、いちばん苦しかった。

別に言っても全然何の問題もないとおもうのだ。ライブで「次が最後の曲です」と言われたら「エー!」と言うように、反射的に、解散しないで!と口をついて出てくるのは、ごく自然なことなのだろうとおもう。
でも、何も気にせずそう言うことはできなかった。きっと理由があるのだろう。解散しないでほしいという気もちを伝えることは、喜ばれないかもしれない。活動できなくなった理由は、バンドの外にあるのかもしれない。なぜか、自分の素直なおもいを、自分で理由をつけて押しこめていた。何もわからないのに。

それで、bjonsが解散したのをきっかけに、自分でほとんど隠していた気もちを書いて出さなければとおもった。まずは書きかけたシャムキャッツのことを。ただし、胸のなかで散らばったいろいろな思い出や、心配や、後悔や、やるせなさをすべてまとめて、ぐしゃぐしゃに丸めて、解散しないでほしい、と投げつけないようにしようとおもった。とにかく、その「解散しないでほしい」に丸めこまれたものを、つまびらかにしていこう。丸めた紙を広げ、しわを伸ばし、何が書きつけてあるのかを自分でも見つめたい。そんなふうにして何とか書き終えた。わたしはまだ、進めていないのだとわかった。それだけでよかった。

人生のなかで特にめまぐるしく、心と体のかたちを変えながらすごした月日を、シャムキャッツとbjonsを聴きながら過ごせたことが、わたしにとっては何よりもありがたかった。ほとんど恋をするように夢中になったから。あなたが心血注いだ作品を、わたしは一生懸命受けとめようとしている。楽しいときにも、つらいときにも聴いているし、そうして歳をとって、あなたの伝えたかったことや、考えたことも、これっぽっちもわかっていないかもしれないし、迷惑かもしれないけれど、どうしても惹かれる。そういうおもいでいたから、今も何でもないような顔をして、とてもさみしい。

ライブへ行く機会も本当に少なく、最近はどうにも音楽を聴くことすら少なくなって、わたしの生活はどうなっていくのだろうか、とおもう。それは趣味という文脈ではなくて、人生のことだ。まだしばらくは進めずに、ただひとりよがりな気もちでいる気がする。

シャムキャッツのこと

2020年6月30日。在宅勤務が続く中、めずらしく出勤したその日、お昼休憩にインスタを開いたらでてきた、白背景に黒い文字だけが載った投稿。よくないしらせなのだとわかった。
「突然の発表となり大変申し訳ございませんが、シャムキャッツはその活動を終え、解散することをご報告させて頂きます。」

デスクでiPhoneを片手に、声を出すこともできず、ただ、胸がどきどきとするのを感じた。それはおもいがけず、しかしそうして伝えるしかないのだとおもった。よく覚えていないけれど、きっと午後の仕事は手につかなかったとおもう。

この日から1年半以上がたった。けれどもわたしはまだよくわからず、前にすすめないでいる。時間がたてば受けいれられるのかもしれないとおもったし、そのあいだに世界は大きく様相を変えたけれども、今もなお心の隅に、普段はさわらないようにして、全部の思い出をそのままにしておいてあるのだ。

それでもひとつだけ書いておかなければいけないことがあって、それは、シャムキャッツをだいすきだということだ。今になってもまだうまく言葉にできないような、やるせなさやくやしさ、無力感の靄をかきわけて、あのまぶしいステージを、背中をさすってくれた言葉や音色を、心地のよい佇まいを、大きな手のひらのたくましさとやさしさを、ひとつひとつ取りだしては、気づかないうちに記憶の奥のほうへ押しこまれないように、ここにありありと書いておこうとおもう。



シャムキャッツと出会ったのは20歳のときだった。バイト友達でバンドをやっていた人から、おすすめの東京インディーアーティストの音源を何枚か焼いたCDをもらったのだ。
入っていたのはcero『World Record』『My Lost City』、ミツメ『mitsume』『eye』『うつろ』『ささやき』、柴田聡子『しばたさとこ島』、そしてシャムキャッツ『たからじま』だった。なかでも、柴田聡子とシャムキャッツに惹かれ、特に、はじめて聴いたシャムキャッツ「なんだかやれそう」には驚いた。

すごくめちゃくちゃで、やんちゃでかわいくて、でもそれだけじゃない。果汁100%のオレンジジュースがじゅばっとほとばしるようなすっぱさがありながら、なぜか3拍子のAメロに、涼しい顔で歌うコーラス、最後には転調まで駆使する、謎に技巧派な曲という印象で、世の中にはこんな曲を歌う人たちがいるんだなあとおもったものだ。続く「本当の人」を聴いた時には、このボーカルの人こういう曲も歌うんだとおもったのだが、その曲は別の人が歌っているのだとしったのはしばらくたってからだった。

そのあとディスコグラフィを調べて、近所のHMVで『AFTER HOURS』を買う。そのころだったか、先述の友達が「GIRL AT THE BUS STOP」のMVのリンクを送ってくれた。スカイブルーのアノラックを着て、ぱっつんと切ったボブヘアーを揺らしながら、団地の敷地内をずんずんと歩き、時折いたずらな視線を投げかける夏目くんに心をうばわれた。

f:id:slglssss:20201231181320j:plain
はじめてライブをみたのは2016年9月17日、吉祥寺スターパインズカフェであったワンマンライブ「ワン、ツー、スリー、フォー」だ。TETRA RECORDSの立ちあげと、EP『マイガール』発売を記念して行われたライブで、キャパシティがそれほど大きくない会場にもかかわらず、幸運にも当選したのだった。

今のようにライブにいくようになったのはこのころからで、とにかくこのライブのことはよく覚えている。4人がとても近くて、いつも聴いていた曲を目の前でみられて嬉しかった。終演後、長机に4人が並んで座り、夏目くんはさっきライブが終わったばかりなのにビールを片手にすでに真っ赤になっていて、わたしが「3度目まして!」(この日が夏目くんに会うのが3回目だったから)といいながら手をさしだすと、ハンバーグみたいにぶあつい手で「3度目ましてぇ〜」と握りかえしてくれた。絶対にわたしのことを覚えているはずがないのだけれど、こんなふうに近くで言葉をかわせるものなのかとすごくときめいた。夏目くんは、酔っぱらっていたって、とてつもなくかっこよかった。今おもいだしたけれど、この日夏目くんに、表紙いっぱいにサインを書いてもらった『じ〜ん』というZINEの画像を、ずっとLINEのプロフィールの背景にしている。

f:id:slglssss:20201231183454j:plain
夏目くんは太文字が上手。


その秋に発売されたEP『君の町にも雨はふるのかい?』は、バンドの人生におとずれた大きな出来事に動揺しながら、ほとばしるエネルギーと汗のにおいをたたえ、その一方では握ったら壊れてしまいそうな繊細さを抱きしめるような、人物像や心の機微を立体的に描きだした作品だ。

それぞれまったく表情のちがう5曲は、別のところに住む5人の物語のようでもあり、あるいはまるであるひとりの暮らしのいち場面を月曜日から金曜日まで切り取ったようでもある。雨が降るからと洗濯物を急いで取りこんだり、友達と後味悪く別れて帰宅しクノールカップスープを作ったりといった描写は、なにげなく歌詞の中に織りこまれているようで、生活する人への共感と愛に満ちたまなざしだと気づかされる。

はじかれたピクルスのような すっぱい俺にかじりついて
まん丸の目で喉を鳴らす 事務所に履歴書でも送ろうか?
転がって転がって転がって息を切らすだけ
引っ掻いて傷つけたくせに悲しい顔して泣いて眠るのだ

転がって転がって転がって転がって転がって
引っ掻いて引っ掻いて引っ掻いて引っ掻いて引っ掻いて
牛乳飲んで 大きくなって 好きに遊んで 好きに眠るのさ

この頃わたしは、多忙のため体調を崩し、仕事を辞める直前だった(この年末に退職する)。通勤電車で聴く「すてねこ」は、身体がおもうように動かなくなり、職場での身のこなし方がわからなくなってしまった日々にあって、これなら聴いていられるというほとんど唯一の曲であった。音楽を聴いても楽しくない、そんなことよりも明日会社にいけるのだろうかということが頭をもたげていた時、夏目くんの声で語られる歌詞は傷口に消毒液を塗るようなわずかな痛みをともないながら、今日をやりすごす気力を何度となく与えてくれた。日常のなかにシャムキャッツがいるというかけがえのない意味をこれほどおもいしった日々はない。


デビュー9周年の2018年には、はじめてのホールワンマン「らんまん」も開催された。この日のことを深く胸に刻んでいるファンはとても多いとおもう。まず、『Friends Again』ツアーではしばらくステージになかったキーボードが、上手にあったときの嬉しさよ(そしてそのキーボードが1曲目から活躍したときのときめきよ)。それだけでなく、『はしけ』や『たからじま』から「このままがいいね」まで、バンドの活動をつぶさにふりかえるようなセットリストと、それを今この時のシャムキャッツとして演奏する勇敢で誇らしげな4人を前にして、たまらず胸を打たれた。

f:id:slglssss:20210211144401j:plain
アンコール後、10秒間の撮影タイム。
TETRA RECORDS設立後、シャムキャッツはポップアップショップなどを通じて、ファンとさらに近くで交流をしはじめる。2018年3月には幡ヶ谷にあるパドラーズコーヒーでポップアップショップと曲づくりワークショップを行った。
f:id:slglssss:20210211145520j:plain
そして印象的だったのは、台湾晩餐会という食事会を開催したこと。メンバーと台湾料理を食べながらアジアツアーのオフショットをみるという会で、ライブでもなければトークショーでもない会にもかかわらず40名が集まったという、いつふりかえってみても、シャムキャッツが人を惹きよせるバンドであったことを象徴するイベントのひとつだったとおもう。あなたはすきなバンドのメンバーとそのファンとテーブルを囲み、映像をみながら語りあったことがあるか?わたしはある。こんなことはこの先きっとないし、これだけにしたい。
f:id:slglssss:20210211145213j:plain
どうみてもただの飲み会風の写真ですが、バンビさんのいるテーブルにいました。
f:id:slglssss:20210211145403j:plain
翌日のライブに向けて台湾入りしていた菅原さんとビデオ通話をしている様子。


f:id:slglssss:20181224151930p:plain
告知の画像、どなたかにお願いすればよかったなって100万回くらいおもっています。
この会をきっかけにわたしが立てたとんでもない企画が、「らんまん上映会」だ。みんなでご飯を食べながらシャムキャッツのライブ映像をみたい。そんなおもいつきから、イベントなど主催したこともなかったのだけれど、シャムキャッツのライブDVD「らんまん」を上映するというイベントを計画した。ダメ元でシャムキャッツのWebサイトのお問い合わせフォームから、許可取りのメールを送った。内心、NGだといわれるんじゃないかとおもいながら。すると、しばらくしてシャムキャッツのマネージャーを名乗る人物からあっさりとOKをいただき、わたしは後戻りができなくなった。

正直いって、自宅でDVDをみられるというのに、入場料を払ってわざわざみにきてくれる人なんているのだろうかとおもう気もちもあった。ミツメのツアー日程(北海道)とかぶってしまったのに気づかず、遠征で東京にいない人も多そうだという情報を得て狼狽した。しかし、Twitterで告知をすればRTやいいねでたくさんの人が気にかけてくださり、集客に不安を感じていた時にメッセージをくれた方もいた。またいざ当日になってみると、たくさんの方がシャムキャッツへの特別なおもいを抱えてやってきてくださった。このために神戸からきてくださった方もいれば、この間のシャムキャッツのライブを事情があって途中までしかみられなかったので、みんなと見直したくてきたという方もいた。

f:id:slglssss:20181224152737j:plain
寄せ書きのノート。
来場してくださった方にシャムキャッツへの寄せ書きノートを作ってもらったのだけれど、上映会が終わった後にページをめくってみると、どこをみても、ただシャムキャッツがすきだと伝えるためだけに、並々ならぬエネルギーが注がれていた。同じバンドを応援する、大切な友達に出会えた。そうおもえた出来事だった。
f:id:slglssss:20181224152921j:plainf:id:slglssss:20181224152932j:plain
後日寄せ書きをメンバーに渡したときの様子。「事務所に飾るね!」といってくださったのだが、その後オフィスでおこなわれたインタビュー画像の後ろにばっちり写りこんでいて泣いた。


『Virgin Graffiti』以降、実はあまりシャムキャッツのライブにいっていなかった。『Friends Again』がだいすきだったわたしにとって、『Virgin Graffiti』は今までとちがうシャムキャッツに映った。余計なものを削ぎ落とした誠実な美しさから、吹っ切れたようなエネルギーの発散に驚いていたのだ。

「このままがいいね」は、美しいものが美しいままでいられないことを、いつまでもわがままで自由な存在でいたいけれど、わがままで自由なままではいられないことを歌っているのに、そうとはわかっていても、わたしの生きる世界の延長線上に彼らがいるとおもうほどに、遠くにいるのに近くにいる彼らが変わろうとする姿を、わたしはどうしても受け入れることができなかった。彼らにとっての過去、わたしにとっての思い出にしがみつくあまりに、シャムキャッツの最後の姿をみつめることができなかったことを、今でもずっと悔やんでいる。

f:id:slglssss:20220116130451j:plainf:id:slglssss:20220116130531j:plain
こんなふうに、未だ気もちの整理がついていないファンもそうそういないだろう。解散後に渋谷PARCOで開かれた写真展には、ぐちゃぐちゃな気もちのまま足を運んだ。写真のなかにいる、若く、笑顔で、おどけてみせる彼らは、もうバンドをやめてしまったのだという事実に、胸のあたりがずしりと重くなるような心地がした。会場でメンバーに会えるのではという期待もあり2回訪れてみたけれど、何度みても、もう終わってしまったということを反芻するばかりで、写真もろくに撮ることができず、カメラマンの佐藤祐紀さんにiPhoneを渡して代わりに撮影していただいたくらいだ。
入場特典でもらったステッカーは、『たからじま』と『Friends Again』。悔しいくらいに、うまくできすぎている。


シャムキャッツというバンドは、友達であり、同志であり、戦友でもある4人が、それぞれ他のメンバーにはないピースを持ち寄り、一枚の絵を完成させたような共同体だとおもう。ピュアで、とても繊細で、時に大胆でどこまでも突っ走り、誰でも夢中にさせ、心配させ、放っておけないとおもわせてしまう、カリスマ性のある夏目くん、落ち着いていて、いつでも柔らかく心地よい雰囲気でありながら、誰よりも興味のおもむくことを気がすむまで追い求める情熱をたずさえた菅原さん、ロックバンドの演奏に新しい風を吹きこむ改革者であり、その一方で、誠実で共感力の高すぎる性格ゆえに自己犠牲をいとわない、まとめ役のバンビさん、言葉数は少なさそうにみえるけれど、バンドやレーベルの屋台骨をがっちり支え、綱引きの1番後ろの人のように、シャムキャッツを形づくり続けた藤村さん。彼らの作品だけではなく、メンバーの魅力にあふれた人柄が、ファンを惹きつけたのだと信じている。もちろん、誰かひとりでも欠けていたら、シャムキャッツにならないのは明らかだ。

もうシャムキャッツとしての4人と会うことはないのだろうかと考えると、しみじみとさみしく、やるせない。思い出のフレームの中ではいつも4人が並び、まぶしいライトの下で輝いている日もあれば、ふと客のいるフロアにやってきて親しげに話してくれる優しいお兄さんたちのようでもあり、そうした彼らからファンにむけられたすべての心づかいに、わたしは慰められ、掬われていた。シャムキャッツはあこがれであり、仲間だったのだ。その裏で、どれだけもがき、くるしみ、シャムキャッツであろうとしたかを、わたしたちはしる由もないのだけれど。

夏目くんは解散によせたメッセージでこう綴った。「このバンドに青春の全てを捧げた事を誇りに思います。」
でもね夏目くん、シャムキャッツはわたしにとっての青春でもあるんだ。それまであまりいったことのなかったライブハウスに飛びこむきっかけになった。会社へいくのがたまらなくつらくても、体がくたくたでも、ボロボロでも、時間さえあればライブにかよった。そこへいけば、気もちがほぐれる、やさしくて心づよい音楽があるから。4人がいるから。
それから、いい友達もたくさんできた。示しあわせなくても、シャムキャッツのライブにいけば必ず友達に会えるという確信があった。シャムキャッツのファンはみんないい人ばかりだよ。みんなでファンのZINEを作ったりしたこともあって、すごく楽しかった。こんなに友達おもいな人たちに巡り会えたのは、間違いなくシャムキャッツのおかげなんだ。そんなことを直接話したことはなくて、それどころかいつも写真を撮ってもらうだけでモジモジしていたよね。でもずっと心の底からそうおもっていたんだ。


今でもときどき、おもいだしたようにシャムキャッツの曲を聴くことがある。いい曲だ。4人にはどこかで会えるとわかっているのに、いつも胸がくるしい。時間が止まったままでいるわたしを、どうか許してほしい。今はこのままで、少しだけ待っていたい。だいすきだよ、わたしたちのファブ・フォー。ありがとう。また会おうね。


P.S. らんまんで、90周年までやりますって宣言していたのを忘れていないからね。

リ・ファンデ『SHINKIROU』のこと

f:id:slglssss:20211212154125j:plainもうずいぶんと時間がたってしまったことだけれど、ある暖かい春の日、青山のインドネパール料理店で、リ・ファンデと近況を話した。世界がむりやりに変えられてからちょうど1年、最近どこかへでかけているか、心地よく仕事をしていきたい、すきなものを自分がすきであれば誰にどうおもわれても別によろしい、などといったことを話したような気がする。彼はぷっくりとしたチーズナンをカレーにつけながらひとおもいにほおばり、想像以上にボリュームがあったのか、しばらくするとお腹がいっぱいになってきたといった。わたしはビリヤニをすくいながら、いつもちょっとだけ食べすぎる彼をみて、しばらく会えなかった友人の素直さに心底勇気づけられた。


1度目の緊急事態宣言明けに制作された前作『HIRAMEKI』から1年、今作『SHINKIROU』が世に放たれた。かけがえのない友人であり、尊敬するミュージシャンであるリ・ファンデの人柄と音楽性が具象化された、傑作である。
『HIRAMEKI』のレコーディングを終えてすぐに息継ぎをして制作期間にはいったようなかたちで、彼が身のまわりで集めて大切に温めたおもいがそこここにちりばめられている。幹になっているメッセージは明確だ。社会のなかで生きながら、自らを偽らず、ありのままであろうとすることである。リ・ファンデはそのおもいを、社会の中にいる、誰かの子であり、親であり、きょうだいであり、恋人で、上司で、部下で、友人で、隣人で、知らない人である「僕」として定義されない、ここにある「僕」と、その僕の目の前にいる大切な「君」とのストーリーに託し、彼自身のルーツであるソウルミュージックへの憧れと、幼少期からはぐくんできたポップミュージックへの愛にのせて届けてくれる。


晴れた空とむこうにぼおっとみえるビル街、波のおだやかな海の、青のコントラストが印象的なジャケットには、サブスクのサムネイルではみえないであろう、点と線でつづられたメッセージがあしらわれているのにお気づきだろうか。ジャケットの撮影地としていくつか候補があったうち、新たな世界への旅立ちをおもわせるこの海辺が選ばれた。ここへは以前訪れたことがあるのだけれど、川の水が海と合流し、広い世界へとでていくことをおもわせるような開放感と、まわりにさえぎるものが何もなく、日差しをうけて一心にきらめく水面のまぶしさをよく覚えている。

リード曲「SHINKIROU」はそんな海のむこう、まだみぬところに、掴めないけれどきっとある大切なことと、それを信じる強さを歌う。

しばらく そのペンを置いて 遠くの見えるところへ
もしかしたら 潜り込んで ブルーを泳いでいける

君がくれようとした その広さは 幼さを
焦がさないように 見ててくれた

君はいる においもしてくるよ 見えない腕で 抱きしめ合おう
憧れて 裸になろう

遠くにいる人に会えないことが日常になってしまったこと、あるいは、近くにいる人と長い時間をすごすうちにこれまでみえなかったものがみえるようになったことに戸惑いながら、味気なく過ぎ去っていく日々をみすごさず、器用に立ち居振る舞えないからこそ、繕うことを避けて、赴くままに「君」と向きあおうとする「僕」は、リ・ファンデの生き方そのものであるとおもう。世の中の枠組みに自分をあてはめるのではなく、「たくましい賢さ」をたずさえて、ゆく先に靄がかかったようなこの世界を進む、勇敢なアンセムである。

照りつける太陽のようなブラスバンド、熱情のなかに爽やかな風をつれてくるSaToA Sachiko氏、Tomoko氏のコーラス、新たに加わったサモハンキンポー氏のパーカッションが音像へさらに奥ゆきをもたらし、次の場所へ旅立つ前に胸を躍らせる様子までおもわせてくれる。


今作ではさらに、リ・ファンデの「心の裏」ともいえるような、これまでみせなかった「指の届かないところ」までもが歌われ、おもわずはっとさせられる。
「パンフレット」は全編のなかでもひときわデリケートな歌声に、胸をきゅっとつかまれるような名曲である。大切な人が大切にするものを、自分がどれだけ、どんなふうに大切にできるだろうかという優しさは、前作の「おかしなふたり」にも通じるような、彼の一途な愛の形なのだ。

失ってみたり 強すぎだったり
そばにいれず
しゃがんでいたよ 暗くしてたよ
もとに戻り
そっと 耳をくっつけてみるよ

エマーソン北村氏によるやわらかく静かなキーボードの音色がふたりの世界に帷をおろし、わたしたちは、寄り添いながらも同じにはなれない者たちが、それでも手をとりあい、一緒に背負うものへの覚悟と、それを分け合って助けあおうとする様子に、おもいをいたすのである。


先日、下北沢440にておこなわれた奇妙礼太郎とのライブで、リ・ファンデは新曲「RUN」を歌いながら、「ここはみんなとコールアンドレスポンスがしたい」と、客席にむかって、コールアンドレスポンスを(ひとりで)再現しはじめた。アルバムではSaToAのふたりとの掛けあいになっている部分である。観客は声こそ出せないものの、手をたたき、ほほ笑み、彼のおおらかなコールにこたえたのだった。会場が人の温かさで満たされた瞬間だった。

君が変えてしまったことで
誰か心配したとしても
それで君の本当のとこは
わかりっこ ないんだから

リ・ファンデのライブへいったことがある方はご存知かもしれないけれど、おそらくこれまで彼は、客席をあおったり盛りあげようとすることはそれほどなかった。それが、このときばかりは客席に呼びかけたり、立ちあがって歌いはじめたりと、ほとばしるようにエネルギーを放出する様子に驚いたのだ。数年前、初めてライブでみた時の繊細さやけがれのなさは内に秘めたままで、なにものにも動じず突き進む果敢さが増したような彼の姿に、ふたたび勇気づけられたのである。


この秋、彼は海のみえるまちへ移り住み、予定になかったであろう道を拓いて歩きはじめている。時代はうつり、予想だにしない出来事が日常の意味を置き換え、変わっていくことへの恐れを抱かずにはいられないときであっても、そっと目を閉じ、内なる声に耳を傾け、心のなかで蜃気楼のようにうかぶ確信をもって一歩を踏みだそう。そのおもいが、愛する人を守り、出会う人たちをふるわせ、新しい世界をつくっていくことを、リ・ファンデはしっている。

slglssss.hatenadiary.jp

休職中のこと

7月末に会社を辞め、今日まで2ヶ月半休職していた。

5月に意気揚々と転職した会社を3ヶ月で退職し、けっこう落ちこんだ。新しいところで新しいことをはじめたいという気もちをぶん殴られてつらかった。直属の上司から(上司とわたしの二人だけのチームだった)、コロナ禍に70%在宅勤務を指示されていながら出社を強要されたり(在宅勤務は3ヶ月間で4日しかなかった)、それでも勤怠を「在宅」に付け替えるように強く言われたり、上司のサポートばかりをさせられ、それから機嫌に任せて言葉のハラスメントを受けるうちに、わたしが壊れてしまわないうちに逃げようとおもった。

取締役や社長や同僚たちから、ハラスメントに気づかなくて申し訳なかったといわれたが、その時はなんと言ってもらえても、なんの慰めにもならなかった。わたしはもっとはやく、誰かにSOSを出すべきだった?誰とも関わらないこのチームから、どうやったら誰かに助けを求められたのだろうか?自分が声を上げることなく、ただ、こと切れるように辞めるという選択をしたのを、情けなくおもっていた。

ちょうど退職する間際に新型コロナウイルスの職域接種があり、最終出社日の2日後に2回目接種を受けた。夏のボーナスもちゃっかり支給されてしまい、自分はボーナスワクチン泥棒だとおもった。ワクチンを打ったところで、出社するわけでもなく、仕事をしていないからといってどこかに出かけられるわけでもなく、朝起きてよく晴れた真夏の空をみながら、ただぼんやりとしていた。


前々職を離れてまだ時間がたっていなかったので、恥をしのんで元上司に相談すると、快く面談をしてくれたのだが、久しぶりに会った元同僚たちの顔をみるだけで安心からか涙があふれでてきてしまい、面談もままならず、挙げ句の果てには社長から(ベンチャー企業のため社長とも近くわたし自身のこともよくわかってくれているとおもう)、「どうみても元気がない。うちにいるときには、もっと元気に自分らしく働けていたとおもう。弱っている時に決断するのは良くないから、1ヶ月くらい考えてからまた話そう」という旨のことを言われ、ごもっともだとおもった。
自分でも驚くほど心身ともに消耗していて、8月の頭から転職エージェントに登録して就職活動をはじめたけれど、オンライン面接とはいえ人前で1時間ほど話さなければいけないのが体力的にもかなり厳しく、面接中にうまく話せなくなったり、面接が終わるとひどく疲れてしまうことも多かった。もちろんそんな状態で面接に通るはずもないが、ある企業の採用担当者から短期離職を指摘され「転職ガチャ」と言われたことにはさすがに腹がたち、その場で退出したかった。部屋にひとりでいるとき、お風呂につかっているとき、口に出して「自信がない」と言ったのはこれがはじめてだった。

とにかく得意なことと苦手なことの差が大きく、特に苦手なことが人並みにもできない。それを、得意なことを頑張ることによってどうにかごまかしてきた。それが、得意なことさえも頑張れない環境の中ではどうにもならず、わたしは無職になることにした。もともとわたしにとっては、働くことのモチベーションが、自分にできることで誰かや社会のためになりたいというものなので、こんなに自信のないわたしにできる仕事はないのかもしれないとおもった。転職エージェントに紹介してもらう求人票をみながら、相手にしてもらえるのだろうかと卑屈になったりもして(実際「短期離職をした人」であることには間違いないのだけれど)、お盆に入るまでは、面接をしてはさらに自信をなくす日が続いた。


時間はたっぷりあった。朝、どれだけ寝てもよかったし、はやく起きてもよかった。夜、眠れなくても怖くなかった。ドラマを続けてみても、本をたくさん買って読んでも、料理をしても、ピアノの練習をしても、筋トレをしても、時間が余った。朝日が昇って、だんだん気温が上がっていくのを感じ、夕日が落ちて夜になるころの風で涼んだ。
それから、ずっとやりたかった韓国語の勉強を始めた。NHKの『まいにちハングル講座』のテキストと音源を購入して、ハングルの読み方や発音を勉強していると、やる気が出て、無力感がまぎれた。語学学習で有名なduolingoというアプリも入れて、毎日ゲーム感覚で単語を覚えて、最近はDropsという単語アプリも追加した。duolingoは今日まで83日連続学習記録がついているので、なかなかまじめにやったとおもう。そのおかげか、先日緊急事態宣言が明けて新大久保に行ったら、韓国スーパーでハングルが読めて、意味がわかったのでとてもうれしかった。Netflixで大流行中の『イカゲーム』は推しのコン・ユさんが出演しているので公開してすぐにみたのだけれど、短いセリフが聴きとれたときには、わたしが韓国語を勉強しているのはこんなふうに、字幕なしで何を伝えたいかをわかりたかったからなのだと気づいて、なんとも感慨深かった。


趣味に没頭しながら9月にはいると、どうしても入社したいとおもう会社の面接にすすむことができ、月末に内定をもらった。やっていけるか分からなくて不安だったけれど、うれしかった。何度も、今度は大丈夫だろうかと気もちがゆらいで、それでもどんどんと日は進んだ。

10月になって、あんなに元気のなかった自分の気もちに、どうやって折りあいをつけようかを考えるようになった。一緒に新大久保へ行った親友に、サムギョプサルを食べながら、こんなことがあったのだと話しているとき、わたしは笑っていた。おもしろおかしく話さなければとおもって。職場でひどい目に遭った話を、あるいは仕事もせず家でぐうたらすごしていた話を、毎日忙しく働く彼女に、つとめて明るく話したかった。

わたしの落ち度も、会社のことも、上司のことも、人と人とのことなのだから、どうにもならないことはどうにもならないのかもしれない。今もときどき、ふとしたときに、上司の声をおもいだして、喉のあたりがつまるような気もちになることがある。けれどもわたしは、久しぶりに着るジャケットをクローゼットから出し、荷物をととのえながら、追いかけてくる記憶を振りはらおうとしている。

明日持っていく書類を書いているとき、昨日買ったbjonsの『CIRCLES』を聴いていた。ライブで聴いたことのなかった「かっこわらい」は春の歌だ。

見慣れない部屋から 見慣れない街を見て
少し不安になっている ここが暮らしになっていく

君に今度伝えたい 何もない部屋は春も寒い
季節は因果律を飛び越えたところだな
羽織る上着1枚見つからないまま朝を迎えた
いつか(笑)になる話さ

明日の朝、わたしは初めて行くオフィスで新しい人たちに出会う。うまく話せるか、まだ自信がない。それでもまた足元にある分かれ道をみて、選ばないほうの道に手をふる。いつの日か、どうすればいいのだろうとおもうしかない日々のことを、そうしたことがすべてだったのだとおもえるようになりたい。